書評
2017年9月号掲載
大切なのは、本当の姿を見ること
――古谷田奈月『望むのは』
対象書籍名:『望むのは』
対象著者:古谷田奈月
対象書籍ISBN:978-4-10-334913-6
デビュー作は主人公が物語世界に入り込むファンタジー小説、二作めは独特の音楽世界に生きる少年の現代小説、続く三作めは結婚や生殖の価値観が反転した社会を描く近未来小説。古谷田奈月さんは、これまで刊行してきた一作一作でテイストを変え、筆力を見せつけてきた。それでいえば『望むのは』は、二作めと通じる部分もあるが、主人公の小春を取り巻く世界はもう少し風変わり。そんな舞台が用意された、青春小説たる本作もまたすばらしい。
どこが風変わりかと言えば、小春と同じ高校に通うことになる隣家の歩くんの母親はゴリラだし、その高校の美術教師はハクビシンだ。最初は小春も違和感を持つけれど、少し経てば、〈変わってるよねえ〉と言いつつ受け入れているクラスメイトで美術部員の鮎ちゃんのように、慣れていく。
だが、そもそも小春自身、ちょっと変わっているのだ。小春は絵の具で色を作る。絵を描くためではなく、いわば色見本のようなものを作って集めている。小春が慕うおばあちゃんは〈色占い師〉というのをしていて、おばあちゃんの〈色集め〉の手伝いも兼ね、町の北東にある藍山(あいざん)に、草木染めのための植物や顔料にするための土などを採集しに行く。
色や光や風は、小春が世界とつながる手段だ。小春は、自分や他者のことも、浮かんできた感情や目の前に起きた出来事も、色や光や風といった自然のたくらみを介して、リアルな手応えを感じるような少女である。そんな小春の、高校の入学式直前から、卒業生を送り出す次の春までの一年が、季節を追いながら描かれていく。
たとえば、新入生登校日のこと。歩が意を決して〈ぼくは、バレエダンサーです〉という自己紹介。歩にとっては、ゴリラの息子であることなどどうでもよかった。言うのに勇気がいったのはバレエのことだったと気づいた小春は、的外れな正義感を気取った自分を恥ずかしく思う。両親から、〈大切なのは、本当の姿を見ることよ〉という薫陶を受けていたのに。その一方で、小春自身も、小春が着ていたスモックのどす黒い〈血みたいな色〉の汚れを見た歩から、猫殺しでもしているのかと誤解されていたことにショックを受ける。
何を見てどう思われるかなんてわかるわけないと言う小春。〈誤解されるのにはわけがある〉〈どうにかは思われる。望みどおりだろうとそうじゃなかろうと〉と切り返えす歩。人は勝手に自分の描くイメージに他者を押し込み、それが違っていたときには失望するのに、他者に勝手に自分のイメージを規定されたときには不満を抱く。だからこそ、マイノリティーに押し込められやすい歩くんやハクビシンの里見先生によって、バレエだの美術だの自分の大切な世界を持つゆえの信念の言葉――たとえば歩の〈でもみんなのイメージするぼくを、ぼくはぶっ殺したりしない。ぼくはもっとイメージするだけ。いいふうに〉、里見先生の〈きみがいったいなんなのかは、きみがわかっていればよろしい〉――が心に響く。
そんなふうに、本書では、「自分が見ている世界」と「他者が見ている世界」との、「自分が見ている他者(あるいは自分自身)」と「他者が見ている自分(あるいは他者自身)」との、いくつものずれや摩擦によって、当たり前と思っていたことの認識が矯正される。なにせ、「思っていたのと違う」に対して、この物語の大人も子どもも、スルーしたり、無視を決め込んだりしない。ふつうに見えても思考回路が変わっているとか、変わって見えても至極真っ当な考え方の持ち主だとか、どこかは風変わりな者同士が、ぶつかり合いを恐れず、わかり合おうとしていくさまがとても美しい。
〈十五歳。若い人間として生きられる、これが最後の一年だ。〉冒頭でそんな胸の内を明かしていた小春。だが、それは若さを未成熟の言い訳にできなくなる不安が言葉になったようなものだ。十五の春に家の地下室でひとり、色で遊んでいた心細げだった少女が、明日十六を迎える日に胸に抱いた〈色褪せろ。わたしが好きな色全部、これまで作った色全部〉。この思いが、カタルシスでなくてなんだろう。このとき小春が望んだのは、〈色の不死ではなかった。朝のように広がる、無限の白だけ〉。世界を光輝く白として見つめられるまでに成長した小春がまぶしい。
(みうら・あさこ ライター、ブックカウンセラー)