書評
2017年10月号掲載
無事な生き方とは何か
――木原武一『田舎暮らしと哲学』
対象書籍名:『田舎暮らしと哲学』
対象著者:木原武一
対象書籍ISBN:978-4-10-437302-4
本書は、半世紀近くにわたる著者の田舎暮らしの体験をもとにして書かれた本である。ところが私は、小説を読んでいるような感覚で読了した。ひとつの自然主義文学のような雰囲気が本書にはあふれている。国木田独歩の『武蔵野』を読んでいるような感覚だ。
『武蔵野』は、当時は農村であった東京の武蔵野地域を歩いて書いた作品だった。独歩は、まるで旅人のように武蔵野を歩き、武蔵野の大地を発見していく。本書はまるで違う。四十年ほど前に、著者は家族と一緒に、千葉県の夷隅川の近くに引っ越してきた。農村に暮らす人になったのである。独歩のような旅人ではない。にもかかわらず、どことなく共通するものがある。その理由のひとつは、『武蔵野』も本書も、知らない土地で知らないものを発見していく、新鮮な感動や驚きに満ちているからであろう。
独歩は武蔵野の大地を歩いた。そこは、まずは自然の大地だった。だがそこには、この大地とともに暮らす人々がいた。武蔵野は、自然と人間が共振してつくられた時空だった。
本書の著者は農村に移り住む。農村という自然と人間の時空に、である。そこには人間とともに生きてきた自然があり、自然とともに生きてきた人間たちがいた。どことなく人間味を感じさせる自然と、どことなく自然らしさを感じさせる人間たち。それが著者が暮らすことになる農村という時空だった。
それはどちらも、著者によって発見された大地である。本当にそういう土地なのかと聞かれたら、答えようもない。『武蔵野』は独歩がとらえた武蔵野の素描である。独歩の目には、確かにそういう武蔵野がみえている。それは独歩という主体がみつけだした武蔵野であり、彼にとってはそれが武蔵野である。真実は、そういうかたちでしか存在しない。
本書もまた著者にとっての真実の農村を描いていく。草花や鳥や虫たちと遊び、庭に木を植え、畑をつくって、そうしているからこそみえてくる自然の世界や、ここで暮らそうとしているからこそ現れてくる地域の人々の様子が描かれている。いわば著者とその家族の暮らしが、素描されていく農村をつくりだしているのである。
引っ越した直後は満足な水を確保できなかった。雨水をためてご飯を炊いたりもしている。家へとつづく道も狭くて通りやすいものではなかった。開拓民のようなものなのだから、想定外の事態にもたびたび見舞われる。
暮らしが安定軌道に乗るまでは、かなり大変だったはずである。それなのに、著者とその家族はそんなことも楽しんでいるかのようだ。苦労させられる大地があるのではなく、そういう苦労もできる大地がある。まるでそんな感じだ。それが著者たちにとっての、みつけだされた大地であり、自然と人間の暮らす時空なのである。大地も農村も客観的に存在しているわけではなく、そこに関わる人とともに存在していて、それが発見された真実の大地や農村なのである。
もしも国木田独歩が先入観や社会の常識で武蔵野を裁断していたら、『武蔵野』という文学は生まれなかったことだろう。目の前で展開していくすべてをニュートラルに受け入れていく自然さが、発見されていく武蔵野をみいださせた。本書の著者もまた、農村で展開していくすべてのことを自然に受け入れる。自然とは何か、農村とは何かという言説よりも、暮らしのなかでみいだされた自然、農村、人々のすべてを信頼している。農村の人々の行動や習俗、ルールも率直に受け入れているから、自分の言説に固執することから発生するトラブルなど生まれようもない。
読んでいくうちに読者は、無事な生き方とは何かを教えられることになるだろう。自然を信頼し、人々の営みを信頼しているからこそ現れてくる無事な日々のあり方を。
書名が『田舎暮らしと哲学』とあるように、本書はひとつの哲学書でもある。実際本のなかでは、しばしば哲学者たちの言葉が引用されている。だがそれが哲学書だという理由ではない。自然や人々の営みを受け入れ、意味づけせずに暮らしていく先に無事な世界が発見されるという本書の空気自体が、ひとつの哲学を提起しているのである。
(うちやま・たかし 哲学者)