書評

2017年10月号掲載

ダ・ヴィンチ的巨人

――佐藤優『ゼロからわかる「世界の読み方」 プーチン・トランプ・金正恩』

伊藤幸人

対象書籍名:『ゼロからわかる「世界の読み方」 プーチン・トランプ・金正恩』
対象著者:佐藤優
対象書籍ISBN:978-4-10-475214-0

 月産1千枚を超える連載執筆、毎月ほぼ1冊というペースの本の刊行、社会人相手のセミナーや大学での講義、ラジオ出演など、超人的ともいえる旺盛な言論活動を続ける佐藤優さん。9月初旬にも、新潮講座の「京都合宿」で2泊3日の集中講座を実施していただいたばかりだ。私も参加したが、三十数名の受講生と共に、その変幻自在の語りに魅了された。
 私は長年、編集者として佐藤さんの活動を間近で拝見してきたが、佐藤さんは「努力する天才」だと思う。驚異的な記憶力と洞察力を持つ天才でありながら、情報収集にしても古典の読み込みや語学のブラッシュアップにしても、いまなお努力を惜しむところがない。しかも、関心領域は、「やくざもの」Vシネマのヒット作『日本統一』やテレビドラマ『東京タラレバ娘』から、北朝鮮ミサイル発射の際の官邸対応の不備に至るまで、果てしなく広い。
 思えば、佐藤優さんとのお付き合いは約25年に及ぶ。初めてお会いしたのは、私が国際情報誌「フォーサイト」編集長をしていた時だった。佐藤さんは当時、在ロシア日本大使館の三等書記官で、出張で一時帰国中だった。ロシアの内情、特に民族宗教問題に深く通暁した外交官というのが第一印象だった。
 お会いする機会が増えたのは、佐藤さんがソ連崩壊後のロシアで大活躍(『自壊する帝国』に詳しい)されたあと帰国され、外務省国際情報局の分析官として活動されるようになってからである。当時、佐藤さんが渾身の情熱をもって取り組んでいたのが、北方領土返還問題だった。従来の硬直的な四島一括返還から、現実的で実現可能性のある四島返還への具体的な道筋をどう作るかを模索していた。
 しかし私に対して、外務省の進める政策を支持するように誘導する言動は一切なかった。「これはスクープですよ」といった情報リークもなかった。情報分析官としての姿勢は常にフェアだった。
 私たちは、月に一度ぐらいのペースで会っては、ロシア問題に限らず、ポスト冷戦期の複雑な世界情勢やバブル崩壊後の日本の政治経済状況について、率直かつ突っ込んだ議論を交わした。その意見交換が、「フォーサイト」を編集するのにいかに役立ったことか。
 当時の私の最大の関心事の一つが、巨大な隣国中国にどう対するか、だった。対中戦略上、日米同盟を重視するのは当然としても、アメリカは消費市場や生産拠点として成長著しい中国を重んずる姿勢を強めないとは限らない。日米関係の維持に努めているだけでは、日本のポジションも危うくなるかもしれない。そんな見立てから、「遠交近攻」セオリーに従い、中国の背後にある大国ロシアとの関係を改善するのが、地政学的に有効な選択肢ではないかと考えた。
 私がこうした問題意識を持つに至ったのも、佐藤優さんとの意見交換が影響していたのは間違いない。その自然な流れの中で、佐藤さんが模索する現実的な北方領土交渉に説得力を覚えるようになっていた。
 当時の佐藤さんのこんな発言を覚えている。
「中国の江沢民主席は、歴史問題などで日本に厳しい姿勢を続けているが、時に日本批判を緩める時がある。橋本・エリツィンの両首脳によって日露関係が前進した時だった」「プーチンがKGBで働き始めた1970年代後半は、まだ中ソ対立が激しかった時代であり、インテリジェンス・オフィサーとして、プーチンの思考の中には中国への警戒感がしっかり埋め込まれていますよ」
 外交官時代、佐藤さんはどんな困難な時にも私の前で弱音を吐くことがなかったが、一度だけ苦渋の表情を見せたことがあった。それは、2001年春に小泉政権が誕生して、田中真紀子議員が外務大臣に就任し、外務省が大混乱に陥った時だった。田中大臣は外交的な積み重ねを無視して、個人的な心情だけで外交を展開しようとしていた。田中大臣をどう扱えばいいでしょうかと、佐藤さんに聞かれた。
 私は社内外の見聞からこう答えた。
「わがままで、扱いの難しい作家を編集者がどう扱うかは参考になるかもしれません。ただ、作家のわがままにも二種類あって、合理的なわがままと非合理的なわがまま。前者の場合はそのロジックをきちんと理解すると対応はできるが、後者の場合はなかなか厄介でしょうね。田中真紀子は後者でしょうから......」
 いわゆる「鈴木宗男事件」が起こって、その余波で佐藤さんが不当に逮捕されるに至ったのは、そのほんの1年後のことだった。
 佐藤さんが逮捕された時、これは何らかの間違いにちがいないと私は直観的に思った。佐藤さんが無罪を主張しているならば、それは「冤罪」だという確信があった(当時はまだ「国策捜査」という言葉はなかった)。
 なぜならば、佐藤さんが背任など、自己利益のために人を貶め、騙すような不正行為を犯す人ではないという強い確信があったからだ。私は佐藤さんに嘘をつかれたことも一度としてなかった。日本という国家を愛する思いも人一倍だった。この確信こそが、のちに佐藤さんに『国家の罠』を書いていただくことにつながっていった。
 新刊『ゼロからわかる「世界の読み方」 プーチン・トランプ・金正恩』は、新潮講座の早朝講座でのレクチャーをまとめていただいたものである。いつもながら、変化の激しい国際情勢について、新聞やテレビ報道だけではわからない鋭い読み解きがなされている。特に、俗なエピソードも豊富に取り込みながら、漫談調でわかりやすい言葉で展開されているのが本書の特徴である。
 佐藤さんが繰り返し強調しているのは、「公開情報」をベースに読み解くことの大事さである。たとえば、トランプについては、大統領就任演説の聖書の引用から、そこに、イスラエル重視の「クリスチャン・シオニズム」の密かなメッセージを読み解いている。その鮮やかな読み解きは推理小説の謎解きさながらである。
 金正恩については、『最後の勝利をめざして』という処女著作を入手して、金日成や金正日をも超えようとする野望を読み解く。また、なぜ異母兄の金正男をクアラルンプール国際空港という公開の場で暗殺するという荒業に及んだのかについても、説得力のある独自の分析がなされている。
 しかし、本書の最大の魅力は、安倍首相とプーチン大統領との間で動き始めた北方領土交渉について、これ以上はない明晰さで語られていることだろう。歴史的経緯、交渉の紆余曲折から、今後の展望までが詳述されていて、この1冊があれば、北方領土問題はすべてわかると言って過言ではない。
 佐藤さんは本書で、本格的な返還交渉は、プーチンが大統領として再選される2018年春から始まり、その方向は、「当面は二島(歯舞、色丹)という形でしか北方領土は返ってこない」が、「国後や択捉でも日本は特別な地位を獲得」し、「将来の四島」返還へと繋げる道であり、これなら日本国民も受け入れるだろうと明言している。これは、佐藤さんが逮捕前、外交官時代に構想していた青写真とほとんど変わりない。皮肉にも事件から十数年経って、国民世論もようやくそこに至ったという印象である。
 佐藤優さんは、いまなお進化する天才である。そのことがよくわかる好著としてお奨めしたい。

 (いとう・ゆきひと 新潮社取締役)

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