書評・エッセイ

2017年10月号掲載

特別企画

銀の皿――新潮社社食の半世紀(第3回)

平松洋子

あなたがいま食べているごはんは、誰が作ったものですか?
食べる人にも歴史があれば、ひと皿の味にも歴史があり、料理人たちにも歴史があって――。

img_201710_15_1.jpg

今日のビュッフェはインドカレー(えび)&ナンとタンドリーチキンでした。

 七月二十五日(火) 野菜ミートグラタンorカレードリア
「おはようございます!」
 朝八時半に厨房を訪ねると、白いコックコート姿の料理人三名、三角巾できゅっと頭をしばった女性四名、息つくひまもない。出勤は毎朝午前七時半、その一時間後、素揚げにした輪切りのなす、ズッキーニ、小房に分けてゆでたカリフラワー、じゃがいも、にんじん、いんげん......グラタン用の野菜が全部バットに並んでいた。仕事が早いなあ。野菜の仕込みは、いちいち皮をむいて切るところから。ズッキーニとなすは、ちゃんと同じ厚さに切り揃えてある。
 新潮社社員食堂の厨房チーフを務めるのは、青木繁幸シェフ五十一歳(昭和四十一年生まれ、平成十三年入社)。東京會舘出身で、もともとの専門は中国料理。最近月に一度登場する「中華定食」が人気を集めているのも当然のなりゆきだ。たとえば七月十四日(金)の「中華定食」は、信じようと信じまいと〈鶏肉の辛子炒め、海老と玉子のチリソース、豚肉と白菜の煮物、ジャージャー麺サラダ〉。さらに強調しておきたいのですが、四種類から料理を選択するのではありません。カウンターに並べたおかず四種類、好きなものを好きなだけどうぞ、である。太っ腹というかチャレンジャーというか、ある意味カロリー無視。いずれにしても、熱い男の熱いキモチが一食二百円に炸裂している。そんなチーフの両腕が、青木シェフの五歳下、瞳ぱっちりの童顔、安齋浩範さん(昭和四十六年生まれ、平成十七年入社)、そのまた五歳下、黒メガネの生真面目タイプ、神田章宏さん(昭和五十一年生まれ、平成二十年入社)。四十代、五十代の三人がチームを組む。

img_201710_15_2.jpg
左から青木シェフ、安齋さん、神田さん

 毎日平均二百五十人分の料理をこなす厨房は、コンロの火口六つ、巨大な回転釜一台、中央の調理台、壁沿いの収納棚で構成されている。昭和四十一年、社員食堂とともに開設された厨房は五十一年ずっと現役続行中、シェフ四代に仕えてフル稼働している。
 八時五十分。腕まくりした安齋さんが回転釜に挽き肉、玉ねぎ、人参、どっ、どっ、どっ、時間差で投入し、大きな木じゃくしで炒め始めた。回転釜は直径約一メートル、いっぺんに大量の調理ができる巨大な半円球型の鍋で、固定弁をはずすと、鍋全体が回転して中身を移せる仕組み。炒め方も、木じゃくしの端を両手で握って底から掘り起こし、力強く混ぜる「集団調理」ならではの動き。スケールの違う量の多さ、鍋の大きさ、火力の強さ、手慣れた者でなければ扱い切れない。
 百人単位の量でコトが進むだけあって、とにかく段取り勝負だ。コンロにかかった寸胴鍋は、グラタンのホワイトソース用の牛乳を種火で湯煎(ゆせん)中。弱火の大鍋には、ミートソース用のデミグラスソース。中火の大鍋には、ミートソースに使う鶏ガラスープ。脇に置いた平鍋には、余熱で溶かすバターのかたまり。じゃまにならないよう壁に張りついて見ていると、安齋さんは回転釜にデミグラスソースを一気に加え、力強く混ぜながらミートソースを仕上げてゆく。かと思えば、合間に大鍋をべつの火口にのせ、温めておいた牛乳、小麦粉、溶かしバターを木じゃくしで練り、隠し味にちょいと白ワインを混ぜたりもしてなめらかなホワイトソースをつくり、炒めておいたマッシュルームと合わせる。このホワイトソースにゆでたマカロニを混ぜ、グラタンとドリア両方に使うもよう。社食歴十二年の額に汗が滲み始め、こちらも息が荒くなる。
 そのかたわら、一心不乱にキャベツ六個のせん切りをこなす神田さん。スライサーでせっせと切り、水に浸してパリッとさせたのち水切り。付け合わせのサラダの野菜も、こうして洗いたて、切りたて。とかく手間を省きがちな「集団調理」だが、毎日"イチからスタート"がここでのお約束だ。
 火の前で汗だくの安齋さんに、余計な口をはさんでみた。
「ミートソース、ホワイトソース、まったく違うソースを二種類つくるの、大変じゃないですか」
「うーん、大変です。でもまあ大丈夫です」
 余裕とあせりが半分ずつ混じった苦笑い。ただし、顔はあせっても、手は止まらない。その空いた手がつかんだ缶を見て、はっとした。カレー粉の大缶......そうだった、今日の献立は「野菜ミートグラタンorカレードリア」。ということは、さらにカレーを作るのか!?
「そうなんですよー、今日は安齋さんがものすごく大変なんですよー」
 通りがかった青木シェフがキラッキラの笑顔で、ばっさり。
「いや、ハイ、いける、と思い、ます」
 安齋さんがちらりと時計を確認、自分にムチを入れるかのように青木シェフに確認する。
「カレードリアはどのくらいの数見てます?」
「ドリア百、グラタン百五十、かな」
「ハイ!」
 洗い直した回転釜でカレー用の肉や野菜を炒め、みるみる百人分のカレーを仕上げてゆく安齋さんのコックコートの背中は汗に濡れていた。
 アシスト役の女性四人の働きぶりにも、目を瞠る。料理ずみの鍋を洗うひと。三升分の米を炊くひと(一回三升を一日に六回炊く)。明日の焼き鳥丼用の鶏肉をバットに移し、ねぎを切り、青木シェフと肩を並べて仕込みを進めるひと。抹茶を溶いて、デザートのかき氷用のシロップをつくるひと。客席のテーブルの上を拭くひと......ばらばらの動きに見えるけれど、自分の仕事を終えたらすぐ次の仕事にかかるフォローぶりがすごい。指示の声を待たず、手の空いたひとが片づけ、次の段階に整然と進む。午前七時半から九時台いっぱい、無駄口を叩くひまもない戦闘態勢なのだが、しかし、むやみな緊張感がなく、厨房に充ちているのはチームワークの一体感だ。おもしろいもので、厨房の空気には人間関係がそのまま出る。なんとなくぎくしゃくしていたり、空気が殺伐とした厨房ならあちこちで数え切れないほど見てきた。
「喜んでもらうためにね、ほんと、みんな一生懸命なんですよ」
 厨房に勤めて八年めの信夫美紀さんが言い、こう続けた。
「二百円の食堂なのにすごいですよね」
 以前は、アシスト業務の女性は六人いたけれど、ご多分にもれず人件費節約のあおりで人数が減り、現在四人。それでも、「女性たちの仕事ぶりはバージョンアップしている」(青木シェフ)。いやもう、二百円の価値は天井知らず。
 毎日の献立は、一ヶ月前に青木シェフが決める。料理そのものにまつわる話は次回以降にくわしく書きたいが、献立の内容は、バラエティや予算だけではなく、厨房の動きも読んでのこと。ちょっと無理をしてでも楽しんでもらおう、こっちも面白がろうというのが青木シェフの性分だ。だからこその、「野菜ミートグラタンorカレードリア」。目の色が変わっている安齋さんの仕事ぶりを見ると、いっぺんにミートソース・グラタン・カレーの三連発はさすがにチャレンジングではないでしょうか、青木シェフ。
「そうなんですよねー。自分としては、カレードリアが今日のポイントです。カレーとホワイトソースが合うかどうか、試食してから盛りつけや量を決めるつもりです」
 ええー。ぶっつけ本番なのだった。
 午前十時、いったん休憩。このとき、下ごしらえができた料理を全員で試食するのが慣例だ。青木シェフが、まず自分で野菜ミートグラタンを仕上げてみせる。
 グラタン皿に、素揚げしたズッキーニ、なす、ゆでたカリフラワー、いんげん、じゃがいもを彩りよく配分し、マカロニ入りホワイトソースをかけ、ミートソースを重ね、チーズ、パン粉を散らしてオーブンへ。
「今日のグラタンは、初めて野菜をごろごろにしてみたんです。そのほうが野菜がしっかり味わえるかなと。うまくいったと思うんですけど、どうかな」
 同じグラタンでも、いつものマカロニ主体のグラタンとはがらりと趣向の違う一品。試食させてもらうと、野菜ひとつずつの食感がくっきりしていて食べごたえがある。
 青木シェフには魂胆があった。
「グラタンって僕が入る前から社食の定番料理だったんですよ。でも、アレは人気にあぐらをかき過ぎてる(笑)。もちろん大事なメニューではあるのですが、新しい料理も食べていただきたいので、今日は野菜をメインにしてみたんです。しかし、グラタンにライスと梅干し、あの取り合わせって何なんですかね(笑)。僕が十六年前に入ったときから決まってました」
 誰もが首をかしげる、でも気がついたら、なければさみしい奇天烈な組み合わせ。
「あれ、南高梅のいい梅干しだから値段が張るんですよ。仕入れ値が嵩むので、何年前だったかな、ふつうの梅干しを蜂蜜に漬けて作って出したことがあるんです。そうしたら、グラタンの日、社員の方が帰りがけに『梅干し、変えた?』。すかさず訊かれてびっくりしちゃって、ああグラタンの梅干しは変えちゃいけないものなんだな、と」
 歴史は現場でつくられる。名物が名物として生き長らえる瞬間をものがたる話だなと思った。
 さて、モンダイはカレードリアです。
「ごはんの上にカレーが先ですか? ホワイトソースですか?」
 安齋さん、神田さんから矢つぎばやの質問が飛んできた。
「ううーん、ドリアなんだから......ホワイトソースが上じゃないかな!」
 料理は現場で生まれる。グラタン皿にごはんを平らに盛り、まずカレー、すぐ上にホワイトソースをとろり。グラタンと同じようにチーズとパン粉を散らしてオーブンで焼くと、本邦初カレードリアが現れた......のだが、ホワイトソースとカレーが熱でユルんで混じり、イマイチの仕上がり。みんなで討議のうえ、最終形は「カレー→ごはん→ホワイトソース」の分離方式に着地した。
「じゃあ今日はこれでいきます!」
 午前十時半。残り一時間を迎えた厨房の動きが加速する。三十個、五十個、八十個......天板に八個ずつ、大盛りのグラタン皿が整然と収まってゆく光景。こりゃカロリーも大盤振る舞いだなとひるんでいると、「おはようございまーす」。
 神楽坂の老舗パン屋「神楽坂亀井堂」から焼きたてのクリームパン、ほうれんそうパン、かぼちゃパンが運ばれてきた。「神楽坂亀井堂」といえば、泣く子も黙る超重量のとろとろクリームパンが名物だ。今日は社員に好評のサプライズ"亀井堂デー"だと聞いて、そのサービス精神に本気で腰が抜けた。いったいどこまで親切なんだ! ひとり分の予算三百七十円は超過必至、青木シェフにそろばんを渡したくなるが、ほかの日との凸凹で辻褄を合わせているということなのか。

 新潮社には、じつはもう一カ所、社食がある。本館と道をはさんで建つ別館地下一階のビュッフェ。別館が建てられた昭和四十九年、地下一階に喫茶と軽食のスペースがつくられた。ひっそりと隠れ家のような独特の雰囲気は、矢来町の奥の院。初代は帝国ホテルから引き抜かれた加藤力生シェフ(昭和二年生まれ、昭和四十九年入社)、現在五代目を引き継ぐのは馬場亮シェフ(昭和五十一年生まれ、平成二十三年入社)。いま本館で勤務する安齋さん、神田さん、三人の回り持ち期間もあったが、今年一月から馬場シェフの単独スタイルに落ち着いた。
 ビュッフェの利用者は毎日平均七十名。開業以来、本館の社食とは献立の内容も雰囲気もがらりと違う。本館が蛍光灯のまぶしい昭和の食堂なら、パン食がメインの別館ビュッフェは、照明を落とした赤坂あたりのホテルのラウンジ風。ロス・プリモスの歌声など聞こえる気がするのはなぜでしょう。
 九月二週目はこんなふう。
四日(月)パストラミサンド ツナサラスパコンソメスープ
五日(火)ヤンニョムチキンバーガー キムチチジミ わかめスープ
六日(水)厚切りハムのパニーニ チキンクリームシチュー
七日(木)とんかつサンド きのこ汁
八日(金)インドカレー(えび)&ナン タンドリーチキン オニオンスープ
 まるで矢来町ワールドレストラン。以前は、ビュッフェといえばサンドウィッチ、ハンバーガー、ホットドッグが定番だったが、そのイメージを打破したのが馬場シェフだ。四十一歳の馬場シェフはシンガポールに三年間住んだ経験があり、得意ジャンルのアジア料理を日ごと繰り出す。七月の献立表に「バインミー フォースープ」、そのうえ「ジェノベーゼピザ」「タルタルフィッシュパニーニ」を発見したときは、思わず目をこすった。
 九月八日朝、仕込み中のビュッフェの厨房を訪ねた。馬場シェフとアシスタントの女性、徳井澄子さんの出社時間も本館と同じ、午前七時半。シェフとアシスタントの二人体制も、やっぱり段取り勝負だ。タンドリーチキン用の鶏もも肉三十五枚は、カレー粉、ヨーグルト、にんにく、生姜、レモン汁、ケチャップなどを合わせて前日からマリネしたもの。オーブンで焼き、ひとり半枚ずつ皿にのせる予定だ。ゆで玉子三十五個も、カレー粉やにんにくにひと晩漬けておいた。サラダ用の野菜を切り、カレーに添えるじゃがいもをゆで、オニオンスープの玉ねぎを炒め、サラダのドレッシングは玉ねぎや人参のすりおろしを混ぜたオリジナルバージョン。あちこち食べ歩くのが好きで、自宅で試作したり、イケると思ったら雑誌やテレビ、インターネットで仕入れた情報もレシピに取り入れると聞くと、ビュッフェが若い女性社員に人気がある理由にも納得する。いっぽう、「(メニューの)言葉がわからない」(佐藤社長)派は、本館の社食を目指す。

img_201710_15_3.jpg
仕込み中のビュッフェ厨房

 午前九時五十五分。オープンキッチンの地下一階に、大鍋で煮こむカレーの香りが充満する。カレー粉は「S&B」、東銀座のインド料理店「ナイル」製「インデラ・カレー」、ガラムマサラ。最後に入れるえびには、あらかじめカレー粉がなじませてあった。
 馬場シェフの指示で細かく動く徳井さんは、一年間社食で働いたあと、別館のビュッフェに移って五年目。まるで親子のように家庭的なチームワークが出来ている。
「馬場さんがいろいろ教えてくださるので、すごく勉強になっています。チキンをマリネすると柔らかくなるとか、玉ねぎを炒めて冷凍しておくと便利だとか、いろんな料理を学べてありがたいです」
 ビュッフェで食事をしながら感じるのは、厨房と客席との距離の近さだ。こぢんまりとして、せわしなさから離れた空間で受け取る無国籍料理の白い皿。ほとんどが女性の常連客だというから、ここにはひそやかな私的な時間が約束されているのだろう。

 午前十一時十分。本館地下の社食にぱちんと蛍光灯のスイッチが入った。そろそろ時間ですよ。野菜ミートグラタン、カレードリアは社食スタート十一時半近くに焼き上がる計算だ。ヤマを越えた今日の立役者、安齋さんもほっと肩をなで下ろしている。スペシャルサービス「神楽坂亀井堂」のクリームパン、秘宝の梅干しもスタンバイ。ただの平日の火曜日なのに、このお祭り感は何だろう。
 午前十一時二十八分。
「始めます!」
 青木シェフの号令がかかると、厨房の空気がさっと引き締まった。第二幕の始まりである。
 午後十一時半。開業時間ぴったりにやって来たお客第一号は、校閲部の男性だった。一瞬迷って選んだのは、野菜ミートグラタン。それからお客は引きも切らず、どんどん行列ができる。出足が鈍くて苦戦するかと思われたカレードリアも、途中でぐんと伸び、青木シェフの読み通りの結果を叩き出した(この日の集客数は、木曜日のハンバーグステーキ二四七に続いて、二四五)。ほぼ売り切れてようやくほっとするのは、客足が引く午後二時半頃。それでも、空腹をかかえた社員が駆け込んでくると、急遽スパゲッティをゆでてカレーをかけて出したりもする。タイムカードを押すのは午後三時半過ぎ。

 厨房での働きぶりを見ていると、料理人としてのそれぞれの道のりを知りたくなってくる。全員、総務部の面接を経て採用された新潮社の社員である。
 社歴十二年、安齋さんの場合。
「十四年間、社員として居酒屋の厨房で働いて、三十四歳のとき朝日新聞の広告欄で新潮社の厨房募集を見て応募したんです。それまで労働も長時間で土日の休みも取れず、このままでは身体が持たない。安定を求めたんですね」
 社歴九年、神田さんの場合。
「高校卒業後、池袋の武蔵野調理師専門学校に通って調理師免許を取りまして、その後、埼玉の日本料理屋に六年半、辞めるつもりはなかったのですが、妻の親戚が台東区でやっている居酒屋を手伝うことになって、そのあと新潮社です。妻がミクシィの書店関係のコミュニティで新潮社のホームページの募集を見つけて、教えてくれた。それまで労働時間が長かったし、腰を痛めていたので、就業時間が短いところがよさそうだな、と」
 社歴六年、ビュッフェ担当馬場さんの場合。
「高校卒業して、池袋の調理師専門学校を経て、親のつてでシンガポールに留学しました。中国料理を習いたくて語学学校でも勉強したんですが、なかなか就職先がなかった。泣く泣く日本に戻り、最初に就職したのが芝大門ホテル系列の中国料理店。そのあと、もう少し自由な時間がほしくて学校給食に五年ほど。そのあと読売新聞の広告を見て、新潮社の面接を受けました」
 三者三様の料理人人生。ただ、現在のチームワークができあがるまでには、それなりの紆余曲折があった。厨房は総務部直轄なのだが、かつては厨房担当者の個人的な好みが優先されたり、たいして実りのない新作試食会が定期的に催されたり、息苦しかった。頑固な職人タイプの料理人がチーフを務めた頃は、罵声を浴びるささくれだった現場だった。当時のことを訊くと、安齋さんは「僕の記憶から消しました(笑)」。無理に持ち出せば、いまとなっては苦笑まじりのなつかしい話だ。
 社員食堂五十一年にわたる紆余曲折のドラマ。しかし、半世紀におよぶ歳月をかいくぐってきたものがある。それが、厨房に伝わるレシピの数々だ。
「変えているもの、伝承されているもの、いろいろです。うどんのつゆはずっとそのままですね。以前のチーフが退社するときにレシピのノートを渡してくれたのですが、そのなかから必要なものは自分のノートに書き写しました」(安齋さん)
「関西系の日本料理を作っていたので、味と見た目に慣れるのに苦労しました。ここで使っているのは色の黒い濃口醤油なんです。甘みもけっこう強い。ただ、ご飯のおかずなので、しょっぱいより甘いほうが食べられるんですよね」(神田さん)
「ビュッフェは全部自分のレシピで作っているのですが、仕入れるパンや野菜は、厨房が長く取り引きしてきた地元の商店のものを使っています。あ、どんなメニューのときもサルサソースを使う方がいらっしゃるので、それは切らさないようにしています」(馬場さん)
 たしかに新潮社の社食の味は濃いめ、甘みが強い。新潮社の創業者佐藤義亮は秋田県出身、佐藤家のルーツも味の濃さに関わっているのではと推察してみたものの、どうやらシェフ代々によって醸成された味のようだ。
 現在の献立と味を差配している青木シェフによって、定番料理にもずいぶん変化が生まれた。グラタンのバリエーション。三色重の煎り卵には酒を加えるのを止め、味つけは砂糖だけ。チキンライスやハヤシライスには「ふわとろ玉子」添え。ハンバーグは煮込みにしたり、焼いたり、ソースをかけたり。あの手この手の工夫が泣かせる。
 いよいよ青木シェフに語ってもらわなければなるまい。十三年勤めた東京會舘から新天地をもとめて新潮社に入社した十六年前は、前チーフが采配を奮っていた。
「最初に厨房で見た光景は衝撃的でした。早ければ午前十時頃までに全部の料理が仕上がっていて、一人前ずつ盛り分けた銀の皿がカウンターに積み上がっているんです。社員のみなさんが食べている時間帯は、厨房の休憩時間だった。料理人として、その光景が信じられなかったんです。これっておかしくないか」
 当時の味の記憶を社員にたずねると、「料理が冷えていた」「社食ってそんなものなのかな、とあきらめていた」「冷たいものを食べるのがイヤで、社食から足が遠のいた」......もの悲しい記憶のオンパレード。しかし、青木さんは「いずれ自分がチーフになったら、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく出す」と心に決めていたという。たとえ社員食堂でも、それが料理人の基本精神だと信じていたし、東京會舘でもそう叩きこまれてきた。
 青木シェフの十八番の中国料理、いつも時間ぎりぎりに作っていらっしゃるでしょう。作りたての温かいものを出したいという気持ちが伝わってきます。
「東京會舘にいたとき、霞が関ビルディング三十四階の霞会館でも中国料理を作っていたんですが、とても鍛えられました。七年間、天皇皇后両陛下のお料理を作るお手伝いもさせていただいていました」
 え、いま何と?
「霞会館で陛下のお料理を」
 あのう陛下って、つまりあのその。
「天皇陛下です」
 青木さんのえびチリも召し上がっていたわけですか。
「あ、はい、そうです」
 銀の皿のえびチリが、急にやんごとない味わいとして迫ってきた。
(次号に続く)

 (ひらまつ・ようこ エッセイスト)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ