書評

2017年12月号掲載

曲学阿世に流れない剛毅な一冊

――佐々木閑/宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮選書)

魚川祐司

対象書籍名:『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』
対象著者:佐々木閑/宮崎哲弥
対象書籍ISBN:978-4-10-603818-1

『ごまかさない仏教』、まさにタイトルが示すとおりの、戦慄すべき仏教書の出現である。
「ごまかさない」というのはもちろん、誤解や虚飾を取り除いた、本来の姿そのものを提示するという意味だが、仏教に関しては、これがなかなか一筋縄ではいかないところがある。
 まず第一に、そもそも釈迦(ゴータマ・ブッダ)の仏教の、「本来の姿そのもの」というのを確定するのが難しい。仏教はおよそ二千五百年前のインドにおいて、ゴータマ・ブッダという人によって創始されたが、その教えは長いあいだ口承のみによって伝わり、それがテクストとして文字化されたのは、仏滅後数百年を経てからのことである。そして、現代に伝わっているそのテクストにも、様々な異同や増広の形跡が見られるから、「釈迦の仏教の本来の姿」を知るためには、その巨大な藪のようなテクスト群を腑分けする、文献学的な手続きが不可欠になる。これはもちろん、そのための独特の訓練と研鑽を重ねた人でなければ不可能なことだ。
 だが、本書においてこの問題について話し合うのは、第一線の仏教学者である佐々木閑氏と、その佐々木氏も驚くほどの該博な、最新の専門論文にまで及ぶ仏教学の知見を有する、評論家の宮崎哲弥氏である。この両者が揃っていて、いいかげんな話が出てくるはずはない。「仏・法・僧」という仏教の基本要素に沿って章立てされた対談を読みながら、読者は自然に、最新の研究から見えてくる「釈迦の仏教の本来の姿」を知ることができる。
 そして第二の困難は、そのように「ごまかさない仏教」を現代日本において再提示しなければならない文脈が、多くの読者にはわからない可能性がある、ということである。誤解や虚飾を取り除く言説に意味があるのは、そうした誤解や虚飾が広く認知されている場合だが、ふだんから仏教学に親しんでいるわけではない読者にとっては、そもそもそのような誤りにふれる機会自体がなく、したがって問題の所在もわからない可能性があるということだ。
 しかし、この点に関しても本書では周到な配慮がなされている。「仏・法・僧」の対談本編の前には序章が置かれ、この三つの章題が持つ意味や、近代まで大乗仏教一色であった日本仏教の状況、そして先ほどふれた経典のテクストにまつわる問題などに関して、簡潔でわかりやすい説明がなされ、専門的な知識を持たない読者にも、「なぜ『ごまかさない仏教』を、いま再説しなければならないのか」という文脈が、よくわかるようになっている。個人的には、この序章において、さっそく「釈迦は業も輪廻も説かなかった」という一部に根強く残る俗説が、自分たちの正統性を主張するために過去の歴史をねじ曲げる危険な解釈の方針であるとして、厳しく批判されているところもポイントが高い。
 最後に、「ごまかさない仏教」を語るための第三の困難は、日本においては仏教書の数は非常に多いけれども、専門書ではない一般向けのそれは、しばしば特定の宗派的な立場を有する著者によって書かれており、彼らの語る「本来の仏教」は、時に(その是非はともかくとしても)己の宗派的な立場に引きつけられたものになりがちなことである。
 だが、この点に関しても、もちろん本書に心配はいらない。宮崎氏は「仏教者」、佐々木氏は「釈迦教徒」として、ともに既存の特定の宗派には依拠していない立場であり、当然のことながら対談の中でも、あくまで「釈迦の本来の仏教は何であったか」ということが、客観的な資料に基づきながら議論されている。
 ゆえに、本書においては現代日本人の価値観や、大乗仏教の都合によってねじ曲げられた釈迦理解が厳しく批判されるが、同時に東南アジアのテーラワーダ仏教がとっている、「自分たちの仏教は、釈迦の直説そのままである」という立場にも批判が向けられる。彼らの依拠するパーリ三蔵とて、釈迦の時代よりもずっと後代に現代の形になった、増広・改変の加えられたテクストであることは学問的な事実だからである。
 このように本書では、「世の流れに逆らう」釈迦の仏教の姿をありのままに提示しているが、だからこそそれが、一般の社会に違和感を持つ人にとっての「心の病院」になり得ることも同時に明かされている。ありきたりの耳に優しい仏教書には飽き足らない読者の方々に、ぜひ手にとってほしい一冊だ。

 (うおかわ・ゆうじ 著述・翻訳家)

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