書評
2017年12月号掲載
人見るもよし 人見ざるもよし
前田速夫『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』
対象書籍名:『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』
対象著者:前田速夫
対象書籍ISBN:978-4-10-610743-6
若き日、武者小路実篤の「友情」や「愛と死」を読んで感動した人たちは、いま老年期を迎えている。若い人たちの多くは、武者小路実篤の名前すら、よくは知らないのではないか。まして、「新しき村」と聞いて、それが何であるかを知る人は限られていよう。
満三十三歳の実篤が、宮崎県日向に土地を求めて、自他共生、人類共生の理想を実現しようと、同志二十名(うち子供二)と、農業による自給自足を目標に、各人の個性を最大限に発揮しうる共同体を起ち上げたのは、大正七年(一九一八)十一月のことであった。
現実を知らぬ愚挙、暴挙であるとして、当時はその「お目出たさ」をさんざん叩かれた新しき村は、その後も、村民同士の内紛や離反、ダム湖建設による水没、埼玉県への移住、実篤の死去と、幾度も存亡の危機に遭いながら、大正、昭和、平成と生き延びて、来年、創立百年を迎える。これは、国内外の他のユートピア共同体の多くが、雲散霧消してしまったのにくらべて、奇跡に近い。
ところがその村も、近年は自活の原動力だった養鶏の不振・廃止による赤字の累積、村民の超高齢化と人口減少(ピーク時には六十五名が、現在は十名)、後継者難と、四重苦にあえいでいて、このままでは、消滅を免れない運命にある。
折しも、日本は、世界は、民族や国家、地域や家族といった、人と人とを結ぶ中間項が機能不全に陥って、格差は広がるばかり、国益が衝突して戦争の脅威が増すその一方で、社会全体が液状化している。
すなわち、武者小路実篤が唱えた理想と、その実践であるコミュニティのありかたが、いまほど切実に求められるときはなく、百年たって、ようやくその真価が認められるようになったこのときに、村が消えていくとは、なんとも皮肉なことだ。
けれども、これは一新しき村の問題ではない。村が直面している困難は、今日の日本が、世界が直面している困難に等しく、村が百年を超えて生き延びられるかどうかを問うことは、今日の日本が、世界が生き延びられるかどうかを問うに等しいと言ったら、おおげさだろうか。
「君は君 我は我なり されど仲よき」――個よりも全体を優先させる世の常の共同体とは違って、全体よりも個を重視する、この世界的にも稀な美質を持つ新しき村が、百年も続いたのはなぜか。現在の苦境から脱するには、いったいどうすればよいのか。一個人には手に余る問題をも含めて、あれこれ考えてみた。
ちなみに、筆者は出版社に入社して早々、実篤の長編自伝小説「一人の男」の雑誌連載を担当している。「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲くなり」と、先生は苦笑しているであろうか。
(まえだ・はやお 民俗研究家)