書評
2017年12月号掲載
短期集中連載
ナミ戦記――あるリトルマガジンの50年史
③1987〜99
★「新潮文庫の100冊」と広告
新潮文庫は1914年(大正3)9月に創刊された。岩波文庫の創刊が27年(昭和2)なので10年以上早い。戦後は49年に創刊された角川文庫を含めた三社が、文庫の市場を占めていた。それが71年の講談社文庫の創刊以降、中公、文春、集英社と次々に文庫に参入してくる。文庫戦争と呼ばれるなか、70年代以降の『波』は、新潮文庫の読者を意識せざるを得なくなった。
76年からは「新潮文庫の100冊」フェアがはじまる。古典的名作からその時点での話題作までを100冊揃え、売り出した。しかし、この年の『波』にはこのフェアについての記事も広告も見当たらない。
ただ、さかのぼると73年8月号の新潮文庫の新刊予告の下に「ベスト100クイズ」が載っている。「次の書き出しで始まる書名を上げてください!」というもので、5つの作品からの引用がある。翌年の7月号と75年7月号にも「ベスト100クイズ」がある(後者は「第4回」となっている)。
後者の問題はこうだ。
次の文章を読んで書名をあててください!
1 この不可思議な《群島》へはどうやって行くのか?
2 ブンとは何者か。ブンとは時間をこえ、空間をこえ、神出鬼没、やること奇抜、なすこと抜群、
3 歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
4 待て、シャイロック。当法廷はまだお前に用がある......
5 「カメダは今も相変らずでしょうね?」
被害者の連れは、被害者にそう東北訛りできいた、
――正解がお判りだろうか? 私はかつて『yom yom』で「小説検定」という連載を持っていたが、このように原文を読んでいないと答えられないタイプの問題を出すと、編集者から「難しすぎますよ!」と文句を云われたものだ。当時でも、よほど小説を読み込んでいないと、全問正解するのは難しかったのではないだろうか。しかも、「応募方法・賞品など、くわしくはお近くの書店へ」とあるだけで、次の号に解答も載せないという不親切設計。当時の読者は出版社に対して寛容だったのだ。
ちなみに正解は、1=ソルジェニーツィン 木村浩訳『収容所群島』、2=井上ひさし『ブンとフン』、3=三島由紀夫『潮騒』、4=シェイクスピア 福田恆存訳『ヴェニスの商人』、5=松本清張『砂の器』。
話がそれたが、このタイトルは「新潮文庫ベスト100」というフェアが「新潮文庫の100冊」以前に行なわれていたことを示すものだ。「海鹹河淡」というサイトによれば、69年には「夏休みにおくる《新潮文庫》のベストセラー100点」という新聞広告が掲載されているという。この辺の事情は社内でも詳しいことが判らなかった。今後の解明が待たれる。
さて、「100冊」開始後の『波』には、文庫に関する記事が増えていく。77年8月号の丸谷才一と谷沢永一の対談「文庫文化の過去と未来」で、丸谷は「単行本で今売れているものを文庫にすることはあまり必要じゃないと思う。それより別の本を文庫という料理の仕方で出してほしいですね」と語る。
78年4月号は99号記念として増ページを行なっている。「編集室だより」では、文庫本創刊ラッシュの状況で、「おそらく、今日、この《文庫の問題》を考えることが、とりもなおさず、《出版文化》全体の将来を占う重要なポイントのひとつになると思われる」とし、増えた分を文庫特集にあてている。松本清張、広中平祐、宮本輝らのエッセイ、高田宏・紀田順一郎の対談「文庫の本棚」で構成している。
ちなみに、この号に載っている新潮文庫フェア「新しい旅立ちのための36冊」の広告はきわめてダサイ。「青春――未熟だなんて 誰にも言えない」というコピーで、妙にゆがんだ女性の写真が使われている。これを見て、この記事の担当者(20代前半の女性)が悶絶していた。前年11月号の新潮文庫フェアの広告も、「愛」というタイトルのフォントから「ひとは女に生れるのではなく 女になるのです」というコピーまで、センスのかけらもない。あわてて擁護しておけば、当時はどの出版社でも、広告は営業部の担当者が自分で版下までつくることが多かったから、限界があったのだろう。新潮社に独立した装幀室が出来たのは、91年である。
79年6月号も増大号で、新潮文庫特集を組む。対談が井上靖・北杜夫「本との出会い」と灰谷健次郎・今江祥智「心に種を蒔く」で、ほかに辻邦生、山口瞳らが寄稿している。80年7月号では、常盤新平がコラム連載「ペイパーバック・ライフ」の特別版として「一〇〇冊のアンソロジー」を寄稿。「100冊」について、「これは文庫の文学全集なのだ。古典、名作から、ホットな作品を含めたアンソロジーである」と評価する。
「100冊」と云えば、タレントがイメージキャラクターをつとめたことでも記憶に残る。最初の77年はヘミングウェイだったようだが、これは誌面に見当たらず。以下、桃井かおり(78~79)、岸本加世子(80)、坂本龍一(81~82)、江川卓(83)、井上陽水(84)、小林薫(85)、緒形拳(86)、陣内孝則(87~89)、宮沢りえ(91~92)、永瀬正敏(93~95)、小泉今日子(96)となる(01年8月号「『新潮文庫の100冊』いま・むかし」)。なぜか90年だけ、動物のアシカがキャラクターなのが不思議だ(写真は岩合光昭)。どうも、キャンペーン開始直前に、起用が決まっていた松田ケイジが覚醒剤所持で逮捕され、急遽差し替えたらしい。このアシカは『波』には出てこない。
81年7月号には、坂本龍一が「ひとりになったら本を読む」を寄稿。このタイトルは「100冊」のキャッチコピーでもあった。そして、翌年3月号の広告は、田辺聖子と坂本龍一のツーショット写真。美女と野獣の逆バージョンのイメージか。コピーは「読書は、女性を内面から美しくします。」ちなみに、フジテレビでは83年には林真理子が、84年には橋本治がイメージキャラクターをつとめている。この頃から、出版社がタレントを取り込み、テレビ局が作家を取り込むようになっていったのだ。
84年からは糸井重里をクリエイティブ・ディレクター、石岡瑛子をデザイナーに起用。糸井の名コピー「想像力と数百円」は96年まで使われた。84年1月号に糸井が書いた「イマジネーション&コインズ」は、このコピーが生まれるまでを解説している。そして、97年からは大貫卓也のディレクションによるYonda?というパンダのキャラクターが登場。「100冊」だけでなく、新潮文庫全体のキャラクターとして展開されていく。
89年5月号から94年6月号まで『波』の編集長を務めた宮辺尚さんは、「誌面で『新潮文庫の100冊』を盛り上げていこうという意識はありましたね。当時は同世代の同僚と話すことが多く、営業部の意見を誌面に反映することもありました。また、時期は覚えていませんが、文庫の編集部が『波』の編集に協力するようになったことも、文庫に関する記事の充実につながったのではないでしょうか」と語る。
他社では、遅くとも90年からは角川文庫、91年から集英社文庫も、夏の文庫キャンペーンをはじめていることもあり、『波』でも「100冊」をどうアピールしていくかに重点が置かれていく。
★メディアの変化
本以外のメディアとの関係もざっと見ておこう。
70年7・8月号には「新潮社提供 テレビ番組のお知らせ」が載っている。東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「日本の顔〈作家に聞く〉」という15分番組。「四月一日のスタート以来、三島由紀夫氏の将来の日本についての考え方、石川達三氏の現代社会に対する批判、司馬遼太郎氏の独自の歴史観、人間観など、ユニークな話題が続出し、見ごたえのある番組としてご好評をいただいています」。こんな番組があったのか。映像が残っていれば見てみたい。以後、柴田錬三郎、立原正秋、北杜夫らの出演が予告されている。
83年7月号では、安部公房と堤清二が「創作におけるワープロ」と題して対談している。「いまワープロを使って新潮社の書下ろし(『志願囚人』今秋刊)を執筆中」とあるが、これは翌年11月に刊行された純文学書下ろし特別作品『方舟さくら丸』のことだろう。12月号の同書の広告には、「ワープロで執筆中の著者」という写真が挿入されている。パソコンやスマホに慣れた世代は、なにを大げさにと思うかもしれないが、ワープロで小説が書けるかが大真面目に議論された時代があったことは記憶されていいだろう。
85年6月には社内にメディア室を新設。同年11月に「新潮カセット文庫」を創刊し、第一弾として『小林秀雄講演』全三巻を刊行した。12月号では江藤淳が「小林秀雄の肉声」を書き、「時の経過がもたらした距離が、一瞬のうちにかき消され、聴き手は語り手の声と、直接向い合う。これこそ文化の伝承を可能にする、もっとも濃密な言語空間である」と評した。このカセットは約6万部売れ、のちにCD化されてロングセラーとなっている。
その後、「新潮カセットブック」として作家の講演、名作の朗読を刊行する。87年7月号では、開高健とさだまさしが選考委員となり「〈新潮カセットブック〉応募感想文入選作」が発表されている。
89年4月号には、1ページ大の思わせぶりな広告が載っている。「新潮社がお届けする家庭電気製品はこんなカタチです――」と、シルエットをイラストで示す。そして、「まだすべてをお見せできないのが残念です。間もなくです ご自分の目でご覧下さい! 触れて下さい! そしてその機能を確めて下さい! この製品がなぜ作られたか きっとご理解いただけると思います。」と煽りまくっている。
次号の広告で、それがラジカセであることが判明する。音響メーカーのラックスと協力して開発した「SLK-1」という商品で、「不要の機能をなくし、コンポーネント機器に匹敵するグレードを得るために多くのコストを費やしました」とある。一説には、当時の社長が「シンプルで使いやすいラジカセが欲しい」と云ったことから開発されたのだという。カセットブックの読者の需要も見込んだのだろうか。しかし、定価3万円(税込み)は当時としても高く、それほど売れなかったのではないかと思われる。「取次各社が取扱を拒否したので、全国書店と直接取引き発売となる」と『新潮社一〇〇年図書総目録』にある。ちなみに、この4月に消費税3%が導入され、『波』はこれまでの定価70円を維持するために本体を68円に設定している。
86年からはビデオ、97年からはCDが刊行されたが、それらが『波』で取り上げられることはほとんどなく、広告で出たことが判る程度の扱いだった。なお、当時の広告でカセットテープやビデオテープの現物の写真を載せているのが、本の書影に代わる証拠のようで、いまとなっては面白い。
★連載と対談
『波』は91年10月号に、それまでの80ページから96ページに増えた。当初はこの分量を持て余している印象もあったが、自社の新刊がらみではない記事を増やすなどの工夫が見える。
当時の編集長だった宮辺さんは、「たんなるPR誌ではなく、読書人のための雑誌だという意識はずっと持っていましたね」と云う。昔から、各部の出席する編成会議で3カ月先までに出る新刊の情報が知らされると、『波』でどのように取り上げるかを編集会議で決めていったという。時間があるので、じっくり企画を練ることができた。
この時期の連載には、星新一の「話のたね」(87年1月号~)、「夜明けあと」(88年1月号~)、池波正太郎が東京の街への哀惜を込めた現代小説「原っぱ」(87年1月号~)、自然と人間について語り合う「水上勉・灰谷健次郎 往復書簡」(88年1月号~ 『いのちの小さな声を聴け』として刊行)、家に迷い込んできた猫との生活を綴る金井美恵子のエッセイ「遊興一匹」(90年11月号~ 『遊興一匹 迷い猫あずかってます』として刊行)、宮城谷昌光「史記の風景」(95年1月号~)、日高敏隆「猫の目草」(96年1月号~)、群ようこ「またたび読書録」(97年1月号~)、「日本」「百姓」などの言葉や概念を問い直す網野善彦「歴史のなかの言葉」(99年6月号~ 『歴史を考えるヒント』新潮選書として刊行)などがある。
「星さんは83年にショートショート1001編を達成していますが、9誌に同時掲載された1001編目のひとつは私が『小説新潮』で担当しました。『夜明けあと』は幕末から明治にかけての近代化の流れを、編年順のエピソードでたどる連載でした。池波さんは『原っぱ』のあと、90年3月号にパリの居酒屋を舞台にした『居酒屋B・O・F』の連載をはじめるんですが、病気のため一回載っただけでそのまま亡くなってしまいました」と宮辺さん。
「90年4月号からは三浦哲郎さんに短篇連作『モザイク』を連載していただきました。『波』では78年5月号から『木馬の騎手』を連載してもらっています。『モザイク』は一回が12~13枚という短いものだったけれど、三浦さんは書くのが遅くてね(笑)。何度も自宅に伺って少しずつ受け取りました。それでも間に合わなくて、ほかの記事が校了して編集部で飲みに行ったあと、三浦家に行って最後の原稿を受け取って大日本印刷に持ち込むなんてことをやっていました」(宮辺さん)
また、86年1月号からは江國滋「日本語八ツ当り」が連載され、それが終わった次号(89年7月号~)には、森本哲郎「日本語 根ほり葉ほり」がはじまる。「言葉についての原稿を載せることは心掛けてはいましたね」と宮辺さん。
なお、88年には日本推理サスペンス大賞が日本テレビの主催、新潮社の協力で設置され、第一回の優秀賞を乃南アサ「幸福な朝食」が、第二回の大賞を宮部みゆき「魔術はささやく」、第三回の大賞を高村薫「黄金を抱いて翔べ」がそれぞれ受賞した。89年には日本ファンタジーノベル大賞が、読売新聞東京本社と三井不動産販売が主催し、日本テレビと新潮社が後援で設置。ここからも多くの新人作家が出た。『波』には、選考委員の対談や受賞者のエッセイが掲載されている。90年8月号には、「快い刺戟を受けた」と題して詩人の北村太郎が、第一回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補に残った三作を書評している。
また、88年には中堅・新人の作家の書下ろし長篇のシリーズ「新潮ミステリー倶楽部」がはじまった。平野甲賀による装幀は、その作家の指紋をあしらうという斬新なものだった。
しかし、担当編集者だった佐藤誠一郎によれば、船戸与一だけは指紋を捺すのを拒否したという。「『俺はこれ(指紋押捺)は何遍もやらされたから、もうやりたくない』って、仕方ないから『蝦夷地別件』には私の指紋を捺しました」(新保博久『ミステリ編集道』本の雑誌社)。
対談、インタビューも多彩だが、88年8月号の手塚治虫・呉智英「漫画は誰のものか」と、91年2月号の篠山紀信・荒木経惟「ウソとまこと、うまいへた」を挙げておこう。前者は「新潮コミック」シリーズの刊行に合わせた対談で、漫画界の巨匠である手塚と、『現代マンガの全体像』を書いた呉が戦後漫画の流れをあとづける内容で、読みごたえがある。後者は荒木の写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』で、妻の死に顔の写真を入れたことを篠山が「そこが写真の表現とかこれからやろうとしていることに関してあなたと私が決定的に違うところだね」と批判する。この対談はすれ違ったまま終わるが、それがかえって、二人の個性を際立たせている。
今回取り上げる時期の最後の年である99年6月からは、山崎豊子の大作『沈まぬ太陽』全五巻が順次刊行される。これに合わせ、『波』では7月号で山崎と羽仁進の対談「"沈まぬ太陽"を求めて」、8月号で山崎による表紙の筆蹟と、インタビュー「鎮魂――御巣鷹山の悲劇」、9月号でもインタビュー「明日を約束する"沈まぬ太陽"」と続く。『波』では一つの作品を数号にわたって取り上げた例は、それまでなかったと思う。この9月号の広告には「既刊70万部突破」とある。
★サブカルチャーと新しい書き手
1980年代には、音楽、映画、テレビ、アートなどで活動する人たちが、出版の世界に足を踏み入れた。『波』にも、サブカルチャーの才人が登場しはじめる。
80年7月号では辻邦生が「〈さだまさし〉って何」を書いている。詩とエッセイの『さだまさし 時のほとりで』が新潮文庫から出るのに合わせてのもの。「編集室だより」には、「同時発売の小澤征爾著『ボクの音楽武者修行』と並んで、若い音楽世代に贈る《新潮文庫》の新企画である」とある。
82年1月号からは、「小室等の音楽横丁」が連載開始。ミュージシャンである小室が、ニューミュージックをはじめ音楽をめぐる状況を書いている。この年12月には、新潮文庫で井上陽水『ラインダンス』、中島みゆき『愛が好きです』が出るのに合わせて、色川武大が井上について、倉本聰が中島について書いている。そういえば、倉本は先日の連続ドラマ『やすらぎの郷』でも中島みゆきの「慕情」を主題歌に使っていた。中島は84年2月号で「エッセイは嫌い」という文章を書いている。同年6月号では、桑田佳祐の『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫)に合わせて、村上龍が「無敵のサザンオールスターズ」を書く。いずれも若いファンに向けてというよりは、おじさん読者の入門篇という感じが強い。
それが、80年代後半になると、『波』にも、若い世代の書き手が同世代の読者に向けて書く文章が載るようになる。その一人が泉麻人だ。
泉は『週刊TVガイド』の編集者として働きながら、『POPEYE』などの雑誌でコラムを書いていたが、84年にフリーランスとなり、さまざまな雑誌で執筆する。泉の著書『街のオキテ』が新潮社から刊行された際、フジテレビのプロデューサー・横澤彪は『波』86年12月号に「醒めて乗るエッセイスト・泉麻人」という文章を寄せている。泉自身の『波』への初登場はもう少し遅く、89年2月号でねじめ正一の『高円寺純情商店街』について書き、その後も何度か寄稿している。泉の著書は、共著を含め新潮文庫に十五冊以上入っている。
同じく89年1月号に登場しているのが、いとうせいこうだ。講談社で『ホットドッグ・プレス』編集部などを経て、フリーランスとなった。88年には初の小説『ノーライフキング』を新潮社から刊行している。この号では「『波』の研究」と称して、「実質上タダ」の同誌の怪しさをあげつらって遊んでいる。「研究」を名乗るわりには、本誌をめくった形跡はないのがちょっとムカつく。ほかにも、『波』には糸井重里をはじめ、川崎徹、仲畑貴志、高田文夫、中森明夫、えのきどいちろうらが登場する。
「新人類」などと呼ばれることもあり、『POPEYE』『宝島』『ビックリハウス』などの若者向け雑誌で活躍していた彼らを、新潮社で最初に起用したのは『大コラム』という雑誌だった。『小説新潮』84年夏臨時増刊として発行された同誌は、「100人」による原稿用紙「1000枚」の書下ろしコラムを掲載するもので、目次には先に挙げた人々の名前がズラリと並ぶ。平野甲賀のデザイン、原田治のイラストもカッコよかった。田舎の高校一年生だった私に東京の風を感じさせる雑誌だった。翌年夏にも『個人的意見 大コラム2』を発行。どちらの号にも村上春樹が登場している。
『大コラム』には、糸井重里の「めずらしいトラ」という小説が載っている。作中に出て来る「松家氏」は、のちに新潮クレスト・ブックスと『考える人』を創刊し、現在は小説家として活動している松家仁之のことだ。これが糸井にとって初の小説だったかは判らないが、この2年後には新潮社から『家族解散』を刊行している。吉本隆明は『波』86年10月号で、同作を読んで横光利一の『機械』や小島信夫の『抱擁家族』を思い出したと書いている。
★本の周辺
前にも触れたように、『波』では新潮社以外の出版物についてもページを割いている。84年7月号からは、書評欄を「ブックプレート」と改題。本についてのさまざまな話題を取り上げるとしているものの、基本的にほとんどが書評だ。88年8月号では枝川公一に唐沢孝一『カラスはどれほど賢いか』(中公新書)を、89年2月号では片岡義男が『ニュー・ロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代』(扶桑社)を、94年8月号では宮内勝典が大竹伸朗『カスバの男』(求龍堂)をという具合に、取り上げる本と評者の組み合わせに工夫がみられる。そこには、それまで新潮社と縁の薄かった書き手に登場してもらう機会をつくるという意図もあった。
また、83年からは毎年12月号に「ことしの本」(「今年の本」とも)を掲載。江國滋をホスト役とし、毎回、相手を変えてその年刊行された本について、縦横無尽に語り合う。ゲストは順に、永六輔、三國一朗、沢木耕太郎、安野光雅、向井敏、常盤新平、神吉拓郎、田辺聖子、高田宏、椎名誠。そして、93年からは森まゆみがホストとなり、ゲストが池内紀、奥本大三郎、児玉清、林望、浅田次郎と続く。
アンケート式で年間ベストを問うのとは違い、その年の出版物の傾向やゲストの趣味によって、ベストセラーを取り上げることもあれば、売れ筋を一切無視することもあって興味深い。この対談ではじめて知る著者や出版社も多かった。97年12月号の「編集室だより」には、「十五年続いた『波』十二月号恒例の『今年の本』は今回で幕を閉じることにいたします」とある。好企画なので、いつか復活してほしい。
本の周辺についての記事は、まだまだある。
85年1月号からの「本きのうきょう」は、各地の書店員からの現場レポート。86年1月号からは「装幀自評」として、和田誠、山藤章二、平野甲賀、司修らが自分の手掛けた本の装幀や、著者との関係を語る。87年10月号では、野中ユリが直前に亡くなった澁澤龍彦の本の装幀について書いている。
90年4月号からの宮田昇「本と権利の周辺」は、出版物エージェンシーとしての経験の深い著者が、海外の著作権などの事情を記す。
93年10月号からの児玉清「エンターテインメントnow」は、海外のエンターテインメントを原書で読むほどの読書家であり、この年からNHK BSで「週刊ブックレビュー」の司会を務める児玉が注目する新刊を紹介するコラム。02年3月号までの長期連載となった。
このほか、93年4月号からは「新潮社一〇〇年・この一冊」として前身である新声社(1896年設立)を含め、新潮社が刊行してきた重要な本を、毎回一冊を取り上げて紹介するコラム。田岡嶺雲『嶺雲揺曳』、田山花袋『ふる郷』、川上眉山『ふところ日記』、永井荷風『夢の女』など、しぶい著者・タイトルが並ぶ。96年12月号まで掲載され、その号の「編集室だより」で筆者が長谷川郁夫であると明かされている。
翌年1月号からは、リレー連載「昔こんな本が在った」が開始。関川夏央が船戸与一(当時の筆名は豊浦志朗)『硬派と宿命』、飯沢耕太郎が濱谷浩『裏日本』というように、さまざまな分野の専門家が過去の名著・奇書を紹介している。
こうして見ると、あの手この手で読書への入り口をつくろうとしている努力がうかがえる。近年の『波』から、こういった版元や新刊にこだわらない本の紹介ページが消えてしまっているのは惜しい。
★読者の声と出版業界
85年1月号の「編集室だより」は、前年10月に行なった「愛読者アンケート」の結果を発表している。それによると、『波』の読者は男性が4分の3を占め、年齢層は全体で45歳である。地域は首都圏が41%を占める。また、他社のPR誌との併読率が70%と高いことも注目される。その他、一カ月の雑誌、書籍にかける費用や本の収容などについての結果が報告され、「私たちは改めて活字の読者を大切にしつつ、有意義な本を出版していこうと思う」と結ばれる。
そして87年5月号では「読者投稿のご案内」という告知があり、8月号から「読者の声」欄が設置された。2ページで4人からの投稿を掲載している。「いい投稿が集まらないことがあって、ページを埋めるのに苦労しました」と宮辺さんは笑う。
今回の最後に、99年9月号の「編集室だより」を紹介したい。
「去年の五月末、江藤淳氏から、『波』六月号の目次に誤植があるとのお電話をいただきました。『編集者・校閲者の仕事が丁寧だから、私は新潮社を信用しているのです。どんな事件が起きようと、編集の現場は基本を疎かにしてはいけない。信頼しているからこそ指摘するのです』――そうおっしゃって下さったことを決して忘れはしません」
江藤はこの電話をした年の暮れに夫人を亡くし、翌年7月に自殺する。この文章もその追悼として書かれたものだ。心身ともに疲れ切っていただろう江藤が、たったひとつの誤植を伝えるために電話をかけたことに、私は感動した。そういった、文字に、雑誌づくりに真摯な著者、編集者、校閲者らによって、『波』は長年にわたり発行されてきたのだと、改めて感じたからだ。
ちなみに、その誤植とは目次のノンブルが間違っているというものだった。
87年から99年までの誌面をたどって感じたのは、老舗出版社の余裕であり、新しい分野への進出だった。この時期、書籍では『福永武彦全集』全二十巻、『開高健全集』全二十二巻、『中村真一郎小説集成』全十三巻などが刊行され、『新潮日本文学アルバム』(第一期)、『新潮古典文学アルバム』が完結。文庫も「100冊」フェアを軸に、さまざまなフェアを打っている。雑誌も『FOCUS』(81年創刊)が好調で、カルチャー誌『03』(89年~91年)国際政治経済情報誌『Foresight』(90年~)、自然を対象とするグラフィック誌『SINRA』(93年~)も創刊した。また、88年には三島由紀夫賞、山本周五郎賞を新設している。カセットブックの売り上げは順調で、自社刊行物の映画化・テレビ化も多く、87年には野坂昭如原作の『火垂るの墓』で映画製作にまで進出している。
その一方、前回触れた吉田健一のエッセイのような牧歌的な読み物は少なくなり、単行本化を想定した連載や、自社の刊行物と連動した記事が増えていく。もちろんPR誌としてはそれが正しい姿なのだが、営業的な意図が次第に前に出てきたという印象も受ける。
日本の出版業界全体で見ると、書籍の売上は96年、雑誌の売上は97年がピークであり、その後、ゆるやかに下がっていく。これからやって来るいわゆる「出版不況」のなかを、『波』はどのように泳いでいくのだろうか。
(次号に続く)
(なんだろう・あやしげ ライター/編集者)