書評
2018年1月号掲載
オチはなくてもいいんです。
――阿刀田高『漱石を知っていますか』
対象書籍名:『漱石を知っていますか』
対象著者:阿刀田高
対象書籍ISBN:978-4-10-125541-5
私の顔には「夏目漱石を読んだことがありません」と書いてあったらしい。新潮社のKさんから「読んでませんよね?」とすっかり見破られて、本書の書評を担当することとなった。元来、文豪の名作は、「国民的宿題」みたいで、読んでない人にうしろめたさを抱かせる。私もずっとそうだった。「吾輩は猫である」「坊っちゃん」はギリギリ読んだが、「草枕」はお手上げ。「三四郎」に至っては、タイトルを聞くと柔道アニメ「紅三四郎」の顔が浮かぶ始末。そんな私が本書で「漱石」にアタックしたと思っていただきたい。
構成は巧みだ。第一章に「猫の近道を訪ねて 〈吾輩は猫である〉ほか」、第二章に「小説の技をちりばめて 〈坊っちゃん〉」ともっともよく知られた作品を持ってきて、漱石世界のドアを軽く開けてくれる。そして、入門編ともいえるこの二作が漱石文学ではむしろ異端だということを示す。
「〈吾輩は猫である〉では、自分にとって書きやすく、仲間を楽しませるものを書いた。得意とする学識をおもしろおかしくちりばめ、猫を主人公とする奇策を用い、自分自身を戯画化し、落語調を採りユーモアをふんだんにそえた」
なんと、夏目漱石の代名詞ともいえる「猫」は、猫の目で人間を描写するという斬新な小説(ペリー個人の感想です)ではなく、「奇策」! 阿刀田説によれば「猫」には、「ストーリーらしいストーリーはないし、イマジネーションも乏しい」「もう少し小説の基本的パターンを踏むほうがよいのではないか」その結果、「これを〈坊っちゃん〉で補おうと努めた、と私は推測したい」とまとまる。なるほど、揺籃期の二作は漱石が本当に書くべきものではなかったということか。
では、漱石は何を書いたのか。第三章「おみくじを引こう 〈草枕〉ほか」以降、それが明らかになる。一番わかりやすいのは、第五章のタイトル「小説は男と女のことを書くもの 〈三四郎〉ほか」だろう。
そうなのだ。第三章以降、取り上げられる作品「草枕」「三四郎」「それから」「門」「夢十夜」「彼岸過迄」「行人」「こころ」「道草」「明暗」は、揃って「男と女」がテーマ。しかも、ほとんどが「女ひとりに男が二人」の三角関係パターンなのである。ここからは私にとって未読の作品ばかり。しかも全部色恋沙汰?......と思ったが、実際は未読作品の解説こそが、本書の読みどころだった。なんたって、オチがわかんないんですから。ドキドキと衝撃の連続だ。
たとえば「草枕」。いやもう、ただただびっくり。
主人公は三十過ぎの画家で、山中の温泉で宿の主人の娘那美と出会い、万葉集の「あきづけば、をばなが上に置く露の......」の歌について語り合う。この歌は二人の男に懸想された娘が悩んだ末に川に身を投げた話につながる。だが、那美は歌のあわれを味わうどころか、身投げなんてつまらない、「男たちを恋人にするばかりですわ」とさらりと言ってのける。
ここでふたりが恋に落ちる......なら話が早いのだが、そうはならない。オチらしいオチはなしだ。えーっ!? 漱石先生からはオチとか言うな! と叱られそうだが、実はこの小説のポイントは画家が「おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのが面白いんです」なんてことを言いながら宿で小説を読んでいること。本書の解説によれば「草枕」という小説そのものも、「芸術を思案し検討するページと、男と女の関係など小説的なページとが、たがいちがいに綴られている二重構造の作品であり、前者は"ぱっと開けて、開いたところを"読むにふさわしい」。
それがつまり、この章のタイトル「おみくじを引こう」なのである。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される......」ザッツ名文! ともいえるおなじみの書き出しも含め、ぱっと開いたところの文章をかみしめて読む。そんな読み方もアリなんですね。目ウロコ。
留学後少しばかり成功した主人公(漱石そっくり)が元養父にたかられる「道草」など、晩年の作品のトーンは暗い。幼少時に養子に出され、養父母が離婚。不仲な妻、胃痛など、本書で語られる漱石の人生も作品理解の助けになる。背景を知れば知るほど「こころ」や「道草」のような暗い話よりも、「猫」のようなユーモア作品を書けたことの方に感心する。
文のうまさは認めても、筋立てはたいしたことはないなど、各作品を冷静に評価する阿刀田目線に笑ったり、共感しながらの漱石世界探訪はすいすいと進む。ふふふ。今の私の顔に何が書かれているか、Kさんに観てもらいたいものだ。
(ぺりー・おぎの コラムニスト)