書評

2018年2月号掲載

追悼特集 葉室麟 遺作『玄鳥さりて』に込めたもの

人の一途な思いが苦境を突破する

高橋敏夫

突然の訃報に誰もが言葉を失った。
人を信じぬく強さ。信念を貫く覚悟。そして限りない優しさ。
遺作となった新刊『玄鳥さりて』には作家・葉室麟の素顔までもが色濃く映し出されている――

対象書籍名:『玄鳥さりて』
対象著者:葉室麟
対象書籍ISBN:978-4-10-127375-4

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 葉室麟の急な訃報に接したのは、本になる前のゲラの状態で『玄鳥さりて』を読みはじめ、三浦圭吾、樋口六郎兵衛ら若き日の登場人物たちが生きいきとうごきだした直後のことだった。
 おどろきはしたものの、しかしそれは、近年あいつぐ歴史時代小説作家の死へのおどろきとはちがっていた。北重人、山本兼一、火坂雅志、宇江佐真理、杉本章子らの悲報は、突然という印象がつよかった。報せとともに、不意打ちにも似た唐突な死にみまわれた作家の呻きがとどく気がした。
 葉室麟の訃報は、わたしにとって突然というわけではなかった。それは、夏に出たエッセイ集『古都再見』(新潮社)で、次の文章を読んでいたからでもある。
「人生の幕が下りる。/近頃、そんなことをよく思う」。葉室麟は、2015年2月に、京都に仕事場を移した。「これまで生きてきて、見るべきものを見ただろうか、という思いに駆られたからだ。/何度か取材で訪れた京都だが、もう一度、じっくり見たくなった。古都の闇には生きる縁となる感銘がひそんでいる気がする。/幕が下りるその前に見ておくべきものは、やはり見たいのだ」。
 死の予感が従来にない生の豊饒をつれてくる、あの「末期の眼」なのか。あるいは、年を経るごとに深まり、いっそうの横溢(おういつ)をもとめる生の感銘が、行く手に死をうかびあがらせたのか。いずれにせよ、死の予感は葉室麟に生のゆきどまりを意識させるのではなく、「見たい」という生の欲望をさらにつよめた。それはそのまま、さらに「書きたい」という強烈な欲求にかさなっていたはずだ。
 人生の幕が下りるのを予感した葉室麟は、ここ数年、新作をほぼ切れ目なく刊行し、とくに2017年に『潮騒はるか』、『大獄 西郷青嵐賦』、『天翔ける』と幕末の動乱を背景とした大作を立てつづけに完成し刊行、あきらかに第二のピーク、充実期をむかえていた。予期した幕が実際に下りてくるのを感じたとき、葉室麟には、見るべきものは見て、書くべきものは書いたという達成感があったにちがいない。
『玄鳥さりて』は、「小説新潮」の2016年7月号から翌年の3月号に連載した作品で、おそらくは死の直前まで手をいれていたであろう武家もの時代小説である。
 ほぼ同時期に書きすすめられた、動乱の時代と格闘する実在の人物を主人公にするスケールの大きな歴史小説とは趣きが異なるとはいえ、いかにも葉室麟らしい、苦境を突破する人の一途な思いをえがく作品になっている。
 九州、四万石の蓮乗寺藩の書院番、三浦圭吾は、十年前島流しとなった樋口六郎兵衛が帰国すると聞いた。少年時代の圭吾は、道場で一番の使い手で、八歳年上の六郎兵衛の稽古相手になることが多かった。なぜだかわからぬものの、六郎兵衛の好意と温かな眼差しを感じていた。道場での席次を争うまでに成長した圭吾は、月見の夜、六郎兵衛が不意に「吾が背子と二人し居れば山高み 里には月は照らずともよし」と詠じるのを聞く。
 豪商の娘、美津を妻にした圭吾は、藩中の派閥争いで今村派に属し出世していくが、寡黙で陰気な六郎兵衛は対立する沼田派にくみこまれた結果、遠島に処せられた。
 十年の後、帰国した六郎兵衛を待っていたのは、暗愚な主君がくわわり激しさをます権力闘争と、しだいに権勢欲にとらわれてゆく圭吾だった。
 そんな圭吾をあくまでも守ろうとする六郎兵衛には、心をよせた者を守れなかった過去があった。停滞に停滞をかさねる物語は、やがて驚愕のラストへとうごきだす――。
『蜩ノ記』があきらかに藤沢周平の『蝉しぐれ』をふまえていたように、『玄鳥さりて』は同じく藤沢周平の短篇で友情の終わりをえがいた「玄鳥」と、権力者のたどりつく空虚をとらえた長篇『風の果て』をふまえている。
 葉室麟は、みずからの充実期をたしかめるように、藤沢周平へのオマージュと乗り越えをくりかえしたことになる。人の一途な思いが、友情の終わりを認めず、武士を捨てさせることで空虚からの解放をついに実現させたこの『玄鳥さりて』は、死を予感し第二の充実期をむかえた葉室麟にとって、ぜひとも書きたい、書かねばならぬ作品だったにちがいない。

 (たかはし・としお 文芸評論家/早稲田大学教授)

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