書評
2018年2月号掲載
米寿老人の冒険譚
――佐江衆一『エンディング・パラダイス』
対象書籍名:『エンディング・パラダイス』
対象著者:佐江衆一
対象書籍ISBN:978-4-10-309019-9
東京大空襲の炎熱下を逃げ回った少年の悲惨な記憶。日系二世ということで家を奪われ、強制収容所に入れられた少女の苦難と屈辱の体験。これらの実際の記憶や体験を持っている人物は、今では八、九十代以上の老人に限られている。この小説のヒーローとヒロインが、必然的に八十八歳と九十歳の老男老女とならなければならなかったのは、そのためだ。戦争体験者を「戦争一世」とするなら、現在は、「戦争二世」が後期高齢者となり、戦争体験がもはやこれ以降の世代に継承されることが難しくなっているのである。
ヒーローとヒロイン? 老人ホームから抜け出して来た、元畳職人のショウヘイ(昭平――昭和と平成か)と、年齢不詳の老美人のツルコ(鶴子)とは、まさに秘境をめぐる冒険物語のヒーローとヒロインといわざるをえない。ショウヘイはパプアニューギニアの先住民族の未開社会で、背中に傷をつけるという傷身儀礼を受けて部族の英雄、そして長老となるし、ツルコは、およそ六、七十歳も歳の差のある若者に惚れ、同居するという老いたシンデレラというべき恋物語のヒロインなのだ。
このようなストーリーだけを見たら、これはそうした老人たちの夢物語であり、蒙昧な野蛮人の世界に文明人が入り込むというターザンや冒険ダン吉の原始世界というユートピアの物語のように思える。敗残の逃亡日本兵として村人たちに受け入れられた父親と同じように、ショウヘイも、ニューギニア奥地のタントゴラン村の人々に温かく迎えられる。村の若者たちといっしょに森や大河や樹木の精霊を信仰する原始の世界に触れ合うのである。
しかし、暗黒世界といわれたパプアニューギニアという小説の舞台の暗い闇を透かせば、そこに夥しい日本の兵隊たちの死屍累々たる惨状が浮かびあがってくる。ショウヘイの父親は、日本軍が進出したニューギニア戦線から、かろうじてほとんど唯一の復員兵として日本へ帰ってくることができたが、その背後には異土の鬼となった戦友たちの無念の死があった。父親は死の前に、息子のショウヘイにニューギニアの戦場で仆(たお)れた戦友たちの遺骨を収集して弔うことと、自分を救ってくれた原住民の子孫たちに感謝を伝えることを、旅のミッションとして残したのである。
ショウヘイは、ケアハウスを出て、中国の豪華客船に乗り込み、南太平洋の船旅に出た。その船内で、彼はツルコや、香港人の黄永宝(この人物の性格はちょっと曖昧だが)と出会い、いっしょにパプアニューギニアのタントゴラン村を目指すことになる。彼らは大河セピックを遡って、奥地にたどりつき、村の一員として受け入れてもらう。しかし、原始のパラダイスのようなニューギニアの奥地にも、シェールガスの発掘などの開発の手が伸び、原始の部族民をその居住地から追い出そうとする政策が取られることになる。地元民の焼畑農業の比ではない大規模な環境破壊だ。太古からの原始の森や大河を汚し、痛めつけ、破壊しようとする中国・日本・アメリカなどの先進国の巨大な開発産業、工業資本、ODAなどと戦わなければならなくなったのである。
ミクロネシアやメラネシアやオセアニアの南太平洋の島々には、まだこの前の大戦の犠牲者たちの遺骨がジャングルや洞窟や水辺に散らばっている。日本の敗残兵のものも、戦勝者アメリカの不運な兵士たちのものも。そうした死者たちの魂を慰撫・鎮魂しないことには、私たちの「戦後」は終わらない。米寿の老日本人の冒険譚が書かれなければならなかったのは、高年齢化した日本社会において、それが一種の希望や理想ともいえる物語としてあったからだ。もう一つは、「戦争一世」が「戦争二世」たちのために残したミッションを、三世、四世以降の世代にも引き継いでもらいたいとの底意もあったのではないか。小説の最後に、夥しいチプネ(カヌー)で大河を遡ってくる先住民たちは戦争とも植民地支配とも関わりのない新世代の人々だろう。アジア太平洋戦争で戦場となったパプアニューギニア(や東南アジア)にとって、中国・日本・米国は「戦争当事国」にほかならない。当事国ではないニューギニアやフィリピンやビルマが悲惨な戦場となった。こうした戦争当事者としての「文明国」に対抗するのが、本来、戦争とは関わりのなかった、未開発国の原住民たちだ。戦争は文明国の賜物であり、平和なパラダイスは、未開・野蛮といわれる人たちの側にある。未開の人たちの方にこそ、地球の環境保全の最後の希望がある。エンターテインメント性を横溢させながら、シリアスな冒険小説。「戦争二世」世代の、未来を切り開く遺言的作品である。
(かわむら・みなと 文芸評論家)