書評
2018年2月号掲載
健康さの向こう側にあるもの
――加藤秀行『海亀たち』
対象書籍名:『海亀たち』
対象著者:加藤秀行
対象書籍ISBN:978-4-10-351481-7
『海亀たち』の主人公坂井はもともとITベンチャーの営業マン。ある日、営業先の美容室でベトナム・ダナンの写真を見かけ、その美しさに魅せられる。ちょうど広告の仕事に行き詰まりを感じていた。夢を売るとはどういうことなのか? 坂井には仕事の意義がわからなくなりつつあった。決断は早かった。坂井は辞表を出し、貯金の二百万円とともにダナンに直行、この地にゲストハウスを開く準備をはじめた。
さて、読んでいると、ここまででわずか数秒(に感じられる)。読者にストレスを与えない、実に軽快な出だしである。それでいて雑でもないし、ウソっぽくもない。ゲストハウスが失敗し、やがて舞台がベトナムからタイへと移ってもこの滑らかな展開は変わらない。失敗から始まってじわじわ道が開けるという流れも快調だし、過不足のない細部描写のおかげで、いつの間にか「ベトナムな感じ」や「タイな感じ」も充満する。
実は、この作品をめくっているときに、幼い頃、この地域に住んでいたという人がたまたま近くにいた。「見る?」と渡すと、数ページながめてすぐ返してきた。
「すいません。無理です。読めません。なまなましすぎて」という。「ほんとにこの通りなんです。ちょっとだめです」とほとんど怒っている感じ。私もそれ以上、詳しいことは訊かなかったが、現地のことを知らない私のような読者が「ベトナムな感じ」などとおもしろがっている以上に、もっと生理的な部分も含めて書きこめている小説なのだろう。
ストーリーに戻ろう。ゲストハウスの失敗で坂井は資金を使い果たす。仕方なく、現地の会社経営者に仕事をもらい、日本語ができることを生かした何でも屋のようなことをして当面の生活費を稼ぐことになる。冒険が本格的に始まるのはここからだ。坂井は雑用をこなしつつ少しずつ現地のネットワークに食いこんで情報を得る。そこで彼が知り合ったのが、香港系カナダ人のデイビッドだった。典型的な「海亀」である。香港人は、海外に出てから戻ってきて故郷で活躍する人をこう呼ぶのだ。坂井はときにはったりをかましたりしながらも、デイビッドとその共同創業者のゲイブの信頼を得て、タイのバンコクにオフィスを開く。その細々した手順もよく書きこまれている。「ビジネス」というと聞こえはいいが、実際には本筋からの脱線や、一見無関係そうな細部にこそミソがあるというのは、まさに小説と同じである。坂井は新しい事業を手がけたり、女性と運命的な再会を果たしたりするが、そうした展開もおきまりのパターンにはまらないたしかな質感とともに描き出されている。
日本にいればもっと楽に生活していけるだろう青年が、わざわざ海外に出ていって苦労しながら奮闘する、そんな行動に必然性を与えるのはいったい何なのだろう。要所要所で物語を前に進めるのは、「いや、考えるんじゃない、魂の求めるまま、自分の感じるままに生きるんだ」とか「[これは]俺が心から望んでいることなのか」というふうに内側からこみ上げる坂井自身の心の声である。別の言い方をすると、この小説を前に動かしているのは、主人公自身なのである。彼はアクターとして、主体として、やりたいことをやっている。何と健康的な物語だろう。
この健康さに警戒感を持つ人もいるかもしれない。ほとんど「自己啓発的」な楽天主義。行動力。純文学の主人公はしばしばこうした前向きさや行動至上主義から遠いところにいる。坂井のように「同じ失敗はしない」などとうそぶいたりせず、何度も同じ失敗を繰り返しては惨めな運命を甘受する。「自分の感じるままに生きるんだ」との声を、そのまま素直に受け入れられるんだったら文学なんかいらねえよ、ということなのだ。思うようにいかず自分の物語の主役になれない――そこに文学が大事にしてきた葛藤があるのではないか。
たしかにそうだ。しかし、私にはこの作家が持っている健康さはそれほど「たちの悪い」ものとは思えない。この作家には自分の健康さを裏切ることのできる力がある。この小説にもすでにそんな「目」が織りこまれている。「なまなましすぎて無理」なんていう反応を引き出したのも、そのためではないかと思っている。
(あべ・まさひこ 英米文学者・東京大学准教授)