書評
2018年2月号掲載
行け。勇んで。小さき者よ。
――一木けい『1ミリの後悔もない、はずがない』
対象書籍名:『1ミリの後悔もない、はずがない』
対象著者:一木けい
対象書籍ISBN:978-4-10-102121-8
当たり前のことだが、デビュー作というのは一生に一回しか書けない。
出版不況、本が売れない、という悲壮な声に抗うようにして、作品がなんとか一冊の本になり、書店で売られるという出来事の喜びは、やはりデビュー作がいちばん強いのではないだろうか。
デビュー作には、小説家がそれまでの人生で感じてきた感情の堆積、顔も見えない読者に向かって伝えたい何か、呼び名すらつけられないけれど、文章を紡ぐのだ、という、噴出し続ける思い、そんなものが濃縮ジュースのように詰まっている。
第十五回、女による女のためのR-18文学賞で読者賞を受賞された一木けいさんのデビュー作、『1ミリの後悔もない、はずがない』を読んで、そんなことをまず感じた。
ご存じの方も多いだろうが、R-18文学賞の募集原稿は四〇〇字詰め原稿用紙三〇~五〇枚という短編の賞である。つまり、受賞しただけでは一冊の本にはならない。受賞作を長編にしたり、連作短編にしたりして、一冊分の原稿を受賞後も書き続けなければならない。受賞しました、本になりました、今日から小説家ですね、おめでとう! とならないのが、この賞のすばらしき厳しさでもある。伴走してくれる編集者との出会いの運、原稿を書き続けられる環境の有無、モチベーションの維持......さまざまなハードルを乗り越えて、こうして一冊の本になったことに、まず、おめでとうございます、と心からお伝えしたい。
『1ミリの後悔もない、はずがない』は、五編の作品による連作短編である。
一作目「西国疾走少女」に登場する「わたし」(由井)は、「事情あり」の中学生である。母と妹と三人で暮らす。父とは共に暮らしていない。父自身の事情は、物語が進むにつれ、明らかにされる。
由井は経済的に困窮している。貧しい子どもの物語でもある。私が自分のデビュー作で、同じような状況に置かれた高校生を描いたとき、「こんな子どもが今の日本にいるものか」という感想をもらい、心底、驚いたことがある。二〇一〇年のことだ。「こんな子どもはいない」と今でも言えるだろうか。読み手の方に見えていないものを可視化すること。小説にはそんな役割もあると思う。
苦しい日々を送っていても恋は生まれる。由井と桐原との出会いと別れは『1ミリの後悔もない、はずがない』を牽引する出来事として瑞々しく描かれ、登場人物を変えて物語は進んでいく。
潮目が変わるのは、由井の夫が登場する「潮時」から。由井も友人たちも大人になり、それぞれの人生を歩いている。由井の夫も「事情あり」の子どもだ。そうした二人が、新しい家庭を築いていく様子が描かれる最後の一編、「千波万波」という作品は、一木けいさんが、これからもずっと書き続けることができる作家であるということを、はっきりと見せつけた作品でもあると思う。
『1ミリの後悔もない、はずがない』の背景に流れているのは、由井の、ふがいない父への思いである。不可解な父、自分をこんな目に遭わせる父への怒り、憎しみ。けれど、人生は続く。不可解な父と同じ、親という立場に立ったとき、子ども時代の記憶の色彩がどう変わっていくのか。
「わたしは流れを変える人になる。」
由井が娘に対して口にする言葉は、未来に向けての力強い宣言だ。
そして、高校生だった由井を支える幸太郎の存在感がいい。誰かに損なわれてしまった何かを、別の誰かが何かで埋めてくれる。書いてしまえば、何でもないことのように思えるが、それを物語として読ませる、ということは、力のある書き手でなければできないことだ。
由井が読む有島武郎の「小さき者へ」の言葉でこの文章を終わらせたいと思う。デビューをした一木さんへ、私へ、そしてまだ見ぬ書き手に向けて。
「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。」
(くぼ・みすみ 作家)