対談・鼎談
2018年2月号掲載
神楽坂ブック倶楽部 presents スペシャル対談
〈俳聖〉芭蕉の正体みたり!
嵐山光三郎 × 冨士眞奈美
芭蕉を追いかけて60年。昨年刊行した決定版評論『芭蕉という修羅』で、色も欲もある俳聖の正体を描きだした嵐山光三郎さん。
スゴ腕水道工事人、東北での隠密行動、美青年との逃避行……
続々明らかになる驚きの横顔を〈俳色兼備〉の名女優と語り合います!
対象書籍名:『芭蕉という修羅』
対象著者:嵐山光三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-141913-8
必殺水道工事人・芭蕉
冨士 嵐山さんが『芭蕉という修羅』という本をお出しになったから、「あの本、読みたい!」って新潮社の方に言ったら、「まず、これから読みなさい」と『芭蕉紀行』も併せて渡されました。数日芭蕉漬けになったんですが、すごく面白く拝読しました。
嵐山 ありがとうございます。
冨士 芭蕉というと、頭から「俳聖」だと思ってしまいがちですけど、嵐山さんのご本を拝読すると、一筋縄ではいかない、とても人間くさくて逞しい男ですよね。
嵐山 俳諧商人にして隠密。
冨士 あと、一般に大きな声では言われていない芭蕉の......。
嵐山 ええ、衆道の方面。
冨士 知らなかったことをずいぶん教わりました。
嵐山 芭蕉は五十一で死んでいます。伊賀藤堂藩の百姓の子どもだけど、苗字帯刀を許された。いつもは農業に従事しているが、いったん戦さがあると参加する農兵の家です。伊賀藤堂家の若殿良忠(よしただ)の近習(きんじゅ)として召しかかえられた。料理もするし、相談にものるし、身のまわりのこともする。良忠は芭蕉より二歳上で俳諧を学び、蝉吟(せんぎん)と号した。その結果、男と男の関係にもなっていく。まあ、当時としては当り前のことだったんですけどね。
冨士 その若殿から俳句を教わって。
嵐山 ええ。ただ当の若殿が、芭蕉が二十三の時に死んでしまい、以後七年間は伊賀上野で若殿の遺稿の整理をして、撰集に入る助けとなった。二十九歳で江戸へ出てきます。
芭蕉を扱った本は大抵、さっき冨士さんが仰ったようにもう芭蕉を俳聖として崇め奉っていますから、ある日江戸の日本橋に現れて、『貝おほひ』という本を出して、いきなり人気者になって、宗匠になったとされていますが、あとで作られた話ですね。さらに、三十七歳の時に「こんなふうに人気者になったのはよくない」と反省をして、深川に隠棲した――そんなお話になってるけど、まず、みんな嘘っぱちです。まず一つには、当時の江戸の人口は七〇万人です。
冨士 世界一の都市だった。
嵐山 当時、ロンドンの人口が五五万、パリが五三万、ベルリンが二万くらい。江戸という世界最大の都市、それも日本橋に住むというのは、身分の高い公務員住宅にいたってことですよ。
冨士 お江戸の中でもピカイチな場所ですからね。
嵐山 普通に考えて、田舎から出てきて、そんな一等地に住めるはずがない。これは藤堂家が芭蕉のために用意をしているわけですね。藤堂新七郎良精(よしきよ)が芭蕉を後押しして、江戸商いをさせた。江戸の就職先を探した結果、水道補修工事の職を得たわけです。藤堂家は築城とか水道の工事のプロですからね。江戸は家康以来、水が悪いのが弱点でしたから需要もあるし。
冨士 芭蕉の水道工事人としての腕は、とても確かだったんですね。神田上水の治水工事なんかも芭蕉がやっている。
嵐山 そう。でも芭蕉は生活困窮のため小石川の水道工事をやっていたというふうに物の本には書かれてるんだけど、そんなはずはないんでね。何よりまず水道工事のために江戸へ出て来たんだから。水道補修で町方の信用を得て、俳諧宗匠をめざしたわけです。
冨士 芭蕉は水道工事という激しい仕事をしながら、俳句を広めていったんですね。
嵐山 水道工事には人足が必要ですよね。芭蕉は自分で肉体労働をするわけじゃないけど、水道補修技術がある。人足たちを雇って差配する請負人をしていました。家康の時代に作った水道が老朽化したため修理工事をしたのです。
冨士 都市は治水が良くないと繁栄しませんものね。しばらく前のことですが、旅行で行ったスペインのセゴビアって街では、二千年も昔のローマ人が造った水道を使っていました。何百メートルもある水道橋があって素晴らしい眺めでした。
嵐山 ローマでも江戸でも、治水は都市の生命線ですから、どこをどんなふうにして通すかというのは、もう軍事機密なんですよ。
冨士 軍事機密?
嵐山 だって、関口の椿山荘のあたりから小石川の水戸藩邸まで水道は地上を流れていましたから、悪いやつが毒を放り込んだら、江戸中の人間を殺せます。だから、あちらこちらへ水番所を置いていた。水は水戸藩邸に入って、庭園の池に流れ込んで、もし毒を入れられていたら飼っている鯉が死ぬ。鉱山へ入る時のカナリアの役目ですよね。小石川の水戸藩邸はいまの東京ドームです。水戸藩邸を流れた水が懸け樋(水道橋)を経由し、地中に埋められた木樋や石樋を通って神田や日本橋に給水されました。芭蕉は、この仕事を任されていたわけです。
「蛙飛こむ水の音」は大発見
冨士 芭蕉さんがそういう本来の仕事をしながら、かつて若殿から教わった俳句をこの広い江戸で広めていけたのは、人格的なオーラとか魅力があったせいかしら?
嵐山 それはやっぱり句が上手いからじゃないですかね(笑)。何だかんだと言っても、結局、世界一の句は〈古池や蛙飛こむ水の音〉ですよ。ニューヨークへ行っても、どこへ行っても、世界中みんなが知っています。「Old pond,/Frogs jumped in,/Sound of water.」って、これがラフカディオ・ハーンの訳。のちのサイデンステッカー訳は「The quiet pond/A frog leaps in,/The sound of the water.」。つまり、ハーンは蛙が複数で、サイデンさんは蛙が一匹だって解釈ですね。外国人が好きなのは、これと〈閑さや岩にしみ入蝉の声〉。
冨士 『蛙合』で〈古池や蛙飛こむ水の音〉を作ったのは、芭蕉が幾つの時?
嵐山 四十三ですね。四十六で『奥の細道』の旅に出ます。四十三というのは、五代将軍綱吉の世になって、「生類憐れみの令」が出てきたところで、バシッと蛙を詠むというのは、つまり幕府推薦図書、文科省推薦俳句ですよね。このへん、商売人ですよ。
冨士 〈古池や蛙飛こむ水の音〉は、「とても静謐できれいな澄んだ池があって、その池の清らかさ故に、蛙が飛びこんだ水の音がすごく響いた」というふうに解釈しがちだけれど、嵐山さんの『芭蕉紀行』によると、本当は、あの古池は混沌とした池で、死体が浮いたり、とても濁った池なんだと。
嵐山 あの句を詠んだ三年前にいわゆる八百屋お七の火事(お七が焼け出された「天和の大火」)があって、深川の芭蕉庵も焼け落ちて、芭蕉自身も隅田川へ命からがら飛びこんでいるんです。だから、あの句はそんな大火の焼跡に、まだ犬などの死体もごろごろしているような風景、混沌たるカオスを詠んだものです。だけど、やっぱりすごいのは〈水の音〉です。それまでの俳句に出てくるのは、鳴く蛙なんですよ。
『蛙合』を作る時に、京都の去来が〈一畦はしばし鳴やむ蛙哉〉という句を送ってくるんです。これは鳴く蛙ですね。夜、蛙がけろけろっと鳴いているんだけど、人間が近くに行くとちょっと鳴きやんで、通り過ぎるとまた、けろけろけろっと鳴き始める。これはこれで上手い句ですよね。でも、あくまで鳴く蛙なんです。
冨士 「飛びこむ蛙」を詠んだのは芭蕉が俳句史上初めてだったわけですか。
嵐山 こういう話もあるんです。芭蕉が上五(かみご)を付けずに、「蛙飛こむ水の音」だけ出して、弟子たちに「この上五をどうするか?」って訊ねたら、一番弟子の其角(きかく)が「山吹や」と付けた。〈山吹や蛙飛こむ水の音〉って、いかにも其角らしい華やかな句になる。でも、芭蕉はそれを採らずに「古池や」と付けた。
ただし、この「古池や」は、単に「古い池」ってことではないんです。芭蕉は室町時代の連歌師、宗祇(そうぎ)をとても尊敬していまして、自分の笠に〈世にふるも更らに宗祇のやどり哉〉という句を書いていたくらいです。宗祇は芭蕉より二百年ぐらい前に日本中を旅していた、芭蕉同様に西行を慕っていた連歌師で、芭蕉と同じく隠密というか、諜報活動をしていた。
宗祇の代表句は〈世にふるも更に時雨のやどり哉〉です。つまり、世を生きていくことは雨宿りのようなものだよ、って句。これを芭蕉は踏まえて、〈世にふるも更らに宗祇のやどり哉〉と詠んだわけです。「古池」というのは、「経(ふ)る」、時がたって、また新しく変わっていく、という意味が掛けてあるんですね。しかも、宗祇の句は『新古今』の歌を基にしている。「ふる」という言葉には伝統があって、ここはやはり「山吹や」ではダメなんですね。「ふる池」に、「蛙飛こむ水の音」を発見したのが、芭蕉の新しさなんです。
フィクション詠むも俳句のうち
冨士 芭蕉は旅人だから、この人を書こうとすると、足跡を追うだけでも大変なのに、そんな俳諧や歌の歴史まで調べていくっていうのは......。
嵐山 それはもう、芭蕉という人間が好きだからですよ。
冨士 幸せでした?
嵐山 とても幸せでした(笑)。中学の時に、〈古池や蛙飛こむ水の音〉を教わってから、延々追いかけてもう六十年ですよ。十五年くらい前かな、俳友の坂崎重盛と自転車で『奥の細道』ルートを全部回ったことがありますし、何遍も何遍も同じ場所に行っています。で、「古池や」についても、蛙の水の音を確かめたくなった。昔芭蕉庵があった近くに今は清澄庭園がありますから、「飛びこむ音を聞いてやろう」と、蛙がたくさん出てくる頃に丸一日いたことがあるんですよ。それでわかったのは、蛙が飛びこむ時、音はしないんですね。ただ、すーっと水の中へ入っていくだけですよ。
冨士 音なんかしないんですね。
嵐山 音がするのはね、ヘビが来たり野良猫が来たり、あるいは人間が近づいてきて、慌てて飛びこんだ時だけ、パチャンと(笑)。芭蕉はフィクションとして「飛こむ水の音」って詠んでいるんですね。
冨士 そこはさすが芭蕉、虚実ない交ぜにするのはとても巧みなんですね。
嵐山 結局、芭蕉がこれだけみんなに慕われるのは、そういう虚実皮膜の中に飛びこんでいく上手さでしょうね。
冨士 現代の解釈だと、「古池というのは誰の心の中にもある古池なんだ」みたいな、それぞれの人間の心に蛙が飛びこんで、音を響かせるセンシビリティのようなことを言いますけれども、そういう解釈だって間違いではない、ってところがすごいですね。
嵐山 俳句は「一度詠んだら、どんなふうに解釈されようがしようがない」とよく言われますよね。僕は「週刊新潮」に「新々句歌歳時記」ってコラムで毎週いろんな俳句を解釈しているんですが、作者が僕の解釈を読んで、「あ、私の句はこんなに良かったのか」(笑)。俳句は解釈されることによって、すごさがわかるってことも間々ありますね。
冨士 「うーん、こいつの解釈は俺の意図とは全然違うけど、まあ、いいか」とか(笑)。
嵐山 そうなんです。解釈する人と詠む人との間を行ったり来たりする生の言葉のすごさ、というのが俳句の力でしょうね。
冨士 嵐山さんのご本の中でも、〈夏草や兵どもが夢の跡〉をめぐる解釈は胸に迫るものがありました。あそこ、何遍も読み直しました。清衡、基衡、秀衡、藤原三代の栄華の跡を、芭蕉も見ただろうし、その感慨や空気を嵐山さんもまた感じる、というところが、まさに紀行文の素晴らしさだなあと思いました。あの句のすごさは、「兵」が一字のところ。「つわもの」がたった一字。
嵐山 去年も平泉へ行くと、女子大生らしき女の子が一人佇んで北上川を見ていて、ああ、彼女は「兵どもが夢の跡」を追体験しているんだなあと思って、ちょっと感激しました。
でもね、今度改めて曾良(そら)の『旅日記』を調べていくと、芭蕉が平泉に寄ったのはたった二時間なんです。あそこは仙台の伊達藩の領地で、『奥の細道』の旅は伊達藩の調査が主な目的でした。曾良は幕府の正式の調査官ですからね。だから、伊達氏の領内にのんびりいたら殺される惧れもあるから、急ピッチで歩いているんですよ。平泉について『奥の細道』ではずいぶんな分量を書いているけど、実際は一関から日帰りで、二時間くらいの滞在なんです。
冨士 山刀伐(なたぎり)峠の辺りなんか、マムシが出るんでしょ?
嵐山 よく読んでくださってる(笑)。山刀伐峠はマムシが出るから、ヘビ除けにアヤメの花を草鞋へ挟んで行ったんです。あれ、ヘビは紺色のアヤメが嫌いだからなんです。「あやめ草足に結(むすば)ん草鞋の緒」って句がありますよね。そしたら坂崎重盛が、「あ、これ、インディゴブルーだ」って。なぜアメリカでブルージーンズが流行ったかと言えば、毒ヘビのコブラがブルーを嫌いだからなんです。で、「草鞋にあやめを付けるっていうのは、これ、ヘビよけだよ」って。それを書いたんですね。そしたらTBSのクイズ番組で、「なぜ、芭蕉はあやめを付けたんでしょう?」なんてやってる。みんなが「気持ちがいいから」「きれいだから」とかって言って、一人が「ヘビよけ」「当たりです!」なんて(笑)。けっこう、僕の芭蕉論は無断で使われていますね。
恋の道行き、はかなき夢
冨士 『笈の小文』は、芭蕉が大好きな美青年の杜国(とこく)と一緒だったでしょ。
嵐山 はい。
冨士 芭蕉は恋人同士で旅できて、とても幸せでしたでしょうけれども、『奥の細道』は曾良と一緒で、あれはあまり楽しくなかったのかしら?
嵐山 曾良とは精神的にはすごく気持ちが合ってましたよ。山中温泉で別れちゃうのは、あそこの宿屋の主人が美少年だったからです。芭蕉はその主人に桃妖(とうよう)という名前を与えていますが、桃妖の句は〈旅人を迎えに出ればほたるかな〉。いいでしょう?
冨士 いいですか(笑)。
嵐山 ダメですか(笑)。僕が詠んだんじゃないですよ(笑)。この句の碑が山中温泉に建てられています。
冨士 杜国と一緒の『笈の小文』の旅はほんとに楽しかったみたいですね。
嵐山 杜国は水も滴る美青年で、名古屋の米屋ですけども、流罪になってしまって、それを芭蕉は秘密で彼と一緒に旅していくわけです。もう見つかっただけで、芭蕉も流されるか、殺されるかですよ。けっこうヤバイことをしている。
冨士 命がけの恋ね。
嵐山 命がけですよ。芭蕉のタイプは、才ある美青年です。
冨士 だって、自分のいちばん好きな人と旅して、句を詠み合って、いいお湯に入って、美味しい物を食べて、地酒を飲んでって、こんな楽しいことないですもんね。
嵐山 まったくです。秘密の恋の旅をして、京都まで行って一緒に芝居を観て、それから明石へ廻って詠んだのが〈蛸壺やはかなき夢を夏の月〉。
冨士 私、その句が芭蕉でいちばん好きなんですよ。あれ、杜国と一緒にいる時に詠んだんですね。ちょっとシュールで、大好きな句。
嵐山 美青年の杜国と一緒に壺の中に入って、夏の月かよ、勝手にしろって感じですね(笑)。
冨士 それも「はかなき夢」なのよね。杜国のことを知らなくても、いちばん好きな句です。
嵐山 旅の翌年に杜国が死んで、芭蕉は寂しがって、杜国のことを思い続けます。それが芭蕉四十四、五歳の頃。その後『奥の細道』の旅に出て、『奥の細道』を書き続けて、亡くなったのが五十一歳。
冨士 満でいうと五十。
嵐山 そうです。『奥の細道』の旅は諜報の仕事がからんでいたわけで、そのあたりの秘密を消して、ようやく完成させたら死んじゃった。自筆の最終推敲本を曾良に預けて、芭蕉の死後八年――つまり東北の旅をしてから十三年も経ってから、やっと出版されました。それぐらい刊行してはいけない紀行だったんですね。芭蕉のことを考えたり調べたりしていくと、いろんなことが出てきて、ずいぶん長い付合いになりました。
冨士 芭蕉って何だか立派過ぎて、取っつきにくいと思っていたんです。ドナルド・キーンさんのものとか、いろいろ本も読んだけど、それでも難しいなって敬遠気味にしてきて......。それが今回、嵐山さんのご本には夢中になりました。本当に芭蕉については、嵐山さんを超えるものは無いと思います。
嵐山 いやいや、ありがとうございます。
冨士 だって、嵐山さんはバスでも電車でも途中で降りて、どんどん風の吹くまま、気の向くままに芭蕉の跡をそぞろ歩いて追っていくでしょう。こういう旅こそ、芭蕉の真髄を極めるのにいちばんいいやり方ですよね。いい本をありがとうございました。
神楽坂 la kagū にて
(あらしやま・こうざぶろう 作家)
(ふじ・まなみ 女優)