書評・エッセイ

2018年2月号掲載

野生動物医学にも脳科学の視点を!

――池谷裕二『脳には妙なクセがある』(新潮文庫)

齊藤慶輔

対象書籍名:『脳には妙なクセがある』(新潮文庫)
対象著者:池谷裕二
対象書籍ISBN:978-4-10-132924-6

 私は獣医師である。毎日、動物の命と向き合って暮らしているが、診療の対象にしているのは、犬や猫でも、牛や馬でもない。ワシやフクロウなどの猛禽(もうきん)類、しかも野生だ。様々な原因で傷ついた絶滅の危機に瀕する猛禽類を治療し、再び野生に帰すことを生業にして、この春で四半世紀となる。私が専門にしているのは保全医学。人間と動物の健康、さらには生態系の健康に関わる領域を連携させることを目的に、獣医学や医学の観点から生物多様性の保全を目指す比較的新しい学域だ。
 獣医師だから、薬理学や生理・解剖学を履修したし、今も仕事で応用しているけれども、動物がどのような脳の動態で行動し、生活を営んでいるかなど、気にかけたこともなかった。ましてや、生命活動の中枢であるはずの脳ですら、時として随意にコントロールすることができない"クセ"があることなど、獣医学と生態学の知識を基に動物の疾患や行動のコントロールを試みてきた私にとってまさに青天の霹靂(へきれき)。脳の生態を知り、直接働きかける、という新しい視点を教えてくれたのは、縁あって巡り会ったこの一冊だった。
 最初、『脳には妙なクセがある』とはなんとも不思議なタイトルだと思った。私にとって、脳は、肝臓や腎臓、消化管などと同様に生物種の生活形態に順応するよう高度に分化した器官であり、個体のようにクセを持つ対象とは考えていなかったからだろう。一方で、相手のクセを理解し、これを念頭に置きながら上手に付き合うことによって、より効果的に目標を達成できることを臨床の現場でも体験している。例えば、猛禽類に錠剤を経口投与する場合、「消化困難な固形物を日常的に吐き出す」という彼らのクセ(生理現象)を知っているからこそ、投与経路を注射にしたり、可能な限り身体に未消化物と認識させないよう細粒を餌に混ぜて経口投与しているのだ。脳のクセを把握することは、もしかしたら獣医療において役立つヒントに繋がるかも知れないと、獣医師の視点に立って本書を読み進めてみた。
 文中に登場する脳の持ち主は、基本的にヒト、すなわち私達人間である。本書はこれを俯瞰的に学術評価した興味深い論文の要約とともに、実社会や日常生活での具体例を様々な視点から紹介している脳の仕様書、解説書だ。
 全編を通して見出しと小見出しによって内容が整理され、読みやすい。様々な実験によって解き明かされてゆく脳の姿は衝撃的だ。自分の感情や思考までもが、潜在的に脳にプログラムされたアルゴリズムによって半ば無意識のうちに制御されているらしいとの報告は、自分とは何なのか、心とは何なのかを、ページをめくりながら繰り返し自問することにつながった。脳との付き合い方は、車のエンジンに似ているかも知れない。クセ(特性)が頭に入っていると、扱い方を工夫して最高の性能を発揮させることができるのだ。また、脳のクセを知ることによって、自分自身はもちろん、他人(の脳)をも意図的にコントロールする事ができるのではないか? さらには、脳のクセを掌握し、人間の行動や心理との関連性が完全に解明された場合、(無論、倫理的に許されないと思うが)薬物などを使って脳の特定部位を計算通りコントロールして、目的に応じた人間を作り上げることすら可能となるのではないか? 妄想は膨らみ、映画に登場するような冷酷無慈悲な殺人兵器や癒し技術の高い介護士、相手に気づかれず顧客の購買欲を操れる営業担当者などを思い浮かべて楽しんだ。
 集中力についての一節では、私が日頃体感しているものとは違った解釈がなされ、興味深かった。本書では『野生の動物たちは、一点集中を避け、むしろ、意識を周囲に分散させながら外敵に注意する「分散力」を必要とします。だから、集中しないようにする"非集中力"を発達させてきたわけですし、その能力に長けた動物たちが生き残ってきているわけです。』とある。動物種によって異なると思われるが、少なくとも私が専門にしている猛禽類に関しては、集中するときは驚異的に集中する。例えば、採餌という数少ないチャンスを確度高く成功させるためには、凄まじい集中力をみせるのだ。非集中力に代わる外敵への対応として、重要なことに集中しながらも、そのバックグラウンドである種の常駐ソフトが働き、無意識に「優秀な警備員」のように警戒しているのではないか。視覚や聴覚などの情報を脳内で整理し、あるものを餌として認識しつつ、同時に得られた情報から危険信号を弁別し、忌避や攻撃に繋げていると思われるのだ。
 自分が関心を持っている事柄に対する異分野の専門家による見解や報告は、それまで全く気が付かなかった視点や考え方を教えてくれる貴重な情報源だ。私はこれまで、人間活動が動物にもたらす事故や疾病にはそれに至る原因が必ずあると考え、獣医学のみならず生態や生息環境の面からこれを解明し、再発の防止に取り組んできた。しかしながら、動物の脳が何に対してどのように反応するかなど考えたこともなく、新たな着眼点が増えたように感じる。
 ともあれ、本書を読み終えた私の脳は、新たな情報に満ち溢れ、興奮状態にある。その感想を一言で表すのなら、脳ってすごい!に尽きる。

 (さいとう・けいすけ 野生動物専門獣医師)

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