対談・鼎談

2018年3月号掲載

『恨みっこなしの老後』刊行記念対談

恨むヒマがあったら、感謝

石井ふく子 × 橋田壽賀子

91歳と92歳の人生観
思い出のドラマ、戦争の記憶、老後の心構え、そしてこれからの仕事……橋田流「自分を楽にする生き方」を記した『恨みっこなしの老後』刊行を機に、60年一緒にホームドラマをつくってきた二人が、あらためて語り合った。

対象書籍名:『恨みっこなしの老後』
対象著者:橋田壽賀子
対象書籍ISBN:978-4-10-351611-8

組んで六十年

石井 お久しぶりです。お電話はよくしていますが、お会いするのは、昨年秋以来ですね。

橋田 あの時は、お一人で熱海の山の中の我が家にいらしてくださいましたよね。ありがとうございました。

石井 私はいつも一人で動きますから。

橋田 あの日、あれこれおしゃべりした後、夕食は熱海の駅前の馴染みのステーキハウスへタクシーで出かけました。着いたら、店のご主人が「九十代のお二人だけで来たんですか」と目を丸くしてね。もう店中が大騒ぎになっちゃった。

石井 私たち、いつも通りに行動しているだけなのにね。年越しは例年通り、船上でしたか。

橋田 年末から十日間、「飛鳥Ⅱ」のニューイヤー・クルーズで、グアムとサイパンを回ってきました。帯状疱疹がなかなか治らなくて体調はイマイチでしたが、船上でお餅つきができて楽しかった。私、お餅つきが大好きなのよ。

石井 わざわざ船に乗らなくても、お餅つきなら、熱海でもできるのにね(笑)。

橋田 それにしても、出会って六十年近くになりますね。

石井 橋田さんと初めて会ったとき、私は三十二歳。それから、本当に多くのホームドラマをご一緒させていただきましたね。1990年に始まった「渡る世間は鬼ばかり」シリーズは二十七年も続いていますが、他にもたくさん思い出深い作品があります。

『恨みっこなしの老後』にも書かれていましたが、大家族を描いたドラマ「ただいま11人」(1964年放送開始)は、ご結婚のきっかけにもなりましたね。

橋田 主人(故・岩崎嘉一氏。1989年没)が企画部で、石井さんがプロデューサー、私が脚本でした。少子化の時代に大家族のドラマをやりたいって言うから、「おもしろい人だな」と思ったのね。

石井 橋田さんはいつも原稿が早い。私の仕事は脚本家を追いかける仕事ですが、橋田さんの原稿は、私を追いかけてくる。でも、ある日、締め切りを過ぎても原稿が来ない。「おかしいな。大丈夫かな」と心配していたら、恋患いになっていた。

橋田 そうなんです(笑)。それで、石井さんに相談したら、すぐに動いてくれました。

石井 だって、とにかく原稿を書いてもらわないことには、こっちは困っちゃうじゃないの(笑)。同僚の岩崎さんとは当時、会社の同じ部屋で働いていました。でも、こんな話、他の人に聞かれたら困るでしょう。携帯なんてない時代ですから、こっそり内線電話をかけて、「あなた、今、誰かいる?」。そしたら、彼は「今はいない」。あの頃は私も独身。彼はてっきり私に愛の告白をされるのかと思って、面食らったみたい(笑)。

お給料目当てで......

橋田 石井さんが取り持ってくださって、おかげさまで結婚できたんです。だって、四十歳の行き遅れのブスの私が、四歳下の彼に自分で告白する勇気なんてないですからね。

 私はその頃、仕事がイヤになっていました。松竹で映画の脚本を十年やったけど、芽が出なくて退社。フリーランスになってテレビに転身したはいいけど、なかなか脚本が採用されない。このまま乏しい才能に鞭打って、生活のために働き続けるかと思うと、ほとほと嫌気が差した。岩崎のおおらかな人柄に惹かれたこともありましたけど、そもそも私は彼のお給料目当てで結婚したんです。

石井 彼はアメリカのドラマ「奥さまは魔女」「ベン・ケーシー」などの放送権の買い付けでも活躍しました。根っからのテレビマンで目利きでしたね。

橋田 主人が青春を捧げたTBSの創立記念日と私の誕生日が同じ五月十日。彼はそれが縁だと言うので、たった二カ月ほど付き合っただけで結婚したんです。

石井 橋田さんは、妻としてずいぶん尽くしていましたよね。

橋田 夫は筋金入りのマザコンで亭主関白。大酒飲みで、毎晩飲んで遅く帰ってくる。私はそれを寝ないで待っていましたからね。結婚してから、後悔したこともありました。加えて、結婚の条件が「俺はシナリオライターと結婚したんじゃない。普通の女と結婚したんだから、俺の前で原稿用紙を広げるな」。仕方がないから、夫がいない間に一心不乱に書いたんです。それで集中力がついて、NHKの大河ドラマ三本(「おんな太閤記」「いのち」「春日局」)、朝ドラ四本(「あしたこそ」「おしん」「おんなは度胸」「春よ、来い」。うち「おんなは度胸」以外の三本は一年間)など、たくさんのドラマを書けたと思っています。朝ドラをやると脚本家は体を壊すのが定説ですが、私は一度も病気にならずに済みました。家事と執筆の両立は大変でしたが、おかげで集中力がついた。人生、何が功を奏するかわかりませんね。

石井 昔同じマンションに住んでいたことがありますが、夜中に突然ピンポンが鳴る。夫婦喧嘩して、私のところに駆け込んできたりね。

橋田 あの時はご迷惑をおかけしました。私は「夫婦喧嘩も、いつかドラマの材料になる」と思っていました(笑)。

石井 昔はあなたも私もタバコを喫んでいたけど、あなた、ご主人には隠していたのよね。ある日、橋田さんの家で二人で相談ごとをしながらタバコを吸っていたら、急にご主人が帰ってきた。慌てたあなたは、とっさに自分が吸っていたタバコを私に持たせるものだから、私は両手にタバコ。仕方ないから、私が二本吸ってるみたいにして、場を繕ったこともありました(笑)。

橋田 「春日局」を書いている最中に夫が癌とわかって私は降板しようと思ったけど、石井さんが止めてくれた。夫が亡くなるまで、私の一番つらい時期を支えていただきました。石井さんは、仕事だけでなく、プライベートでも恩人です。

戦争は「記念」にはできない

石井 私も橋田さんからいろんなことを教わりました。私がやりたい企画を引き受けてくれるのは橋田さんだった。

 ある時、局に「戦争の記念番組をつくれ」と言われたことがありました。戦争を経験している私からすると、戦争は「記念」になんてできるものではない。

 今回のご本に、橋田さんが海軍経理部に勤めていた頃、特攻隊員を見送った戦争の体験が記されていましたが、私にも忘れられないことがあります。

 勤労動員に駆り出されていたある日、警戒警報が鳴ったんです。その後すぐに空襲警報が鳴るのは分かっていたから、皆急いで班ごとに整列するために集まった。でも、その日に限って、副班長の私は仕事が長引いてしまいました。副班長はいつもは先頭なのに、なんとか駆けつけて最後尾にやっとついたんです。その直後に、機銃掃射。私の代わりに先頭に並んだ班長をはじめ、列の前から三人が亡くなりました。

橋田 それはつらいわね......。

石井 普段通りに私が先頭を務めていたら、今頃私はいません。ご家族と先生にお知らせに行く時のつらさ......。いまだにそのつらさが心にありますね。明日また会えるかどうか分からないという時代ですから、「さよなら」という言葉は決して使いませんでした。皆家に帰る時は、「またね」と声を掛け合って別れました。

橋田 そう、死ぬのが怖くなかった時代でしたよね。今日生きていること自体が不思議で、戦争は皆が死ぬものだと思い込んでいました。当時は、コッペパン一個が神様からいただいたみたいにありがたかった。

 終戦時に私は二十歳。同世代の男性は戦争でたくさん亡くなり、「トラックいっぱいの女に一人の男」と言われた時代ですから、結婚なんて考えられなかった。でも、『恨みっこなしの老後』に書いたことですが、戦争でどん底を知ったおかげで、その後の人生の「幸福度」が高くなったという事実はありますね。

石井 ドラマでどう描こうとも、現実の戦争の凄まじさ、つらさは伝わりようがない。私は、局の意を汲みながら、何ができるかを考えました。そこで思いついたのが、赤穂四十七士が悲願を達成する「忠臣蔵」を女性側の視点でドラマにすること。でも、当時の女性についての資料がほとんどなかったので、いろんな脚本家に頼んでも断られました。でも、橋田さんだけは「のった」と二つ返事で引き受けてくれたんです。それで実現したのが「東芝日曜劇場」一二〇〇回記念の三時間ドラマ「女たちの忠臣蔵」(1979年放送)です。

橋田 太平洋戦争で、「天皇陛下、万歳!」と言って亡くなった方々もかわいそうですが、その人たちの苦しみは命尽きたときに終わった。でも、後に残された家族は、その後ずっと苦しんだでしょう。太平洋戦争で、私たちが実際に目にしたことを投影して、「忠臣蔵」の背景にいた女たちを描きました。男が戦う陰で、女がどれほどの犠牲を払って、つらい思いをしたのか。私は母、姉、それぞれの立場の思いを書きました。史実は少ししか残されていなくても、脚本家がいくらでも作ればいいですからね。

「視聴率は?」「知りません」

石井 東芝へ企画の説明に行ったら、「それは立ち止まって観られるドラマですか」と訊かれたんです。私は何のことを言われているのか分からなかったけど、とりあえず「はい、そうです」と、許可だけもらって帰りました。放送後に真っ先に東芝に御礼に行くと、担当者が「立ち止まるどころか、僕は泣いたよ」と言ってくださいました。続けて、「視聴率は?」と聞かれもしたけど、「知りません」と応えましたよ。

橋田 私たちは視聴率で作ってないのよね。

石井 どうやったら皆さんが感動してくださるか。それだけを考えて、ひとつひとつのドラマを作っているんです。

橋田 あの頃はスポンサーが一社だったから良かったですね。今は複数のスポンサーがいて、プロデューサーとスポンサーが会う機会なんてないですよね。一社提供だった時代は、そのスポンサーが企画を理解してくれたら実現できた。

石井 ナショナル提供のドラマに出ている俳優は東芝提供には出られないし、またその逆も同じといった縛りはありましたけどね。

橋田 他では、「源氏物語」を書かせていただいたのは夢みたいでした。谷崎潤一郎さん、円地文子さんなど訳された方はたくさんいらっしゃるけど、映像化はめったにできないことでしたから。

石井 四時間を二回という、二度とできない豪華なドラマでした(総制作費十二億円。1991年12月27日、1992年1月3日放送)。語り手の紫式部を三田佳子さん。源氏は、上の巻は東山紀之さんで、下の巻は今の片岡仁左衛門さん。藤壺女御と紫の上の二役を大原麗子さん。末摘花を泉ピン子さん。歌舞伎、新派、新劇、映画界から、錚々たるメンバーが出演してくださいました。

橋田 私たち、つくづくテレビの一番いい時代にやらせていただきましたよね。昔の私の原稿料は安かったけど......。

石井 そうでもなかったですよ。それに今は、一番高いです。

橋田 エッ! TBSで? 本当に? だったら、局のためにも、もう書かない方がいいわね。

石井 またそんなこと言って(笑)。

原節子さんへの憧れ

橋田 私は、原節子さんの最期に憧れているんです。2015年に九十五歳で亡くなられましたよね。1963年に引退された後は、静かに暮らされて、亡くなってからも二カ月以上マスコミにも知られなかったでしょう。

 石井さんは戦後女優さんをされていたときに原さんと共演されたんですよね。

石井 父(劇団新派の俳優伊志井寛氏)の知り合いの長谷川一夫先生が推薦してくださって、新東宝に入ったんです。
「女医の診察室」(1950年)という作品で出会った原節子さんはすごく素敵な方でした。プロデューサーに「台詞も何もいりませんから、原さんのおそばでお手伝いをさせてください」と強引に頼んだら、看護婦の役をくれたんです。ある日、私は撮影現場で具合が悪くなって医務室で横になっていたんです。誰かに声を掛けられて目を開けたら、女医の衣装のままの原さんが「大丈夫?」と心配してのぞきこんでくださいました。びっくりした私が緊張していると、「ちょっと口開けて」。何かな、と思っていたら、チョコレートをぽとんと口に落としてくださったんです。「これを食べると元気になるわよ」って。

橋田 なかなかチョコレートが手に入らない時代よね。

石井 それ以来、私はチョコレートを食べないの。原さんにいただいた味を忘れたくないから。

橋田 それでチョコレートを召し上がらないのね。てっきり、お嫌いなのかな、と思っていました。

石井 原さんは、おきれいで、さっぱりした男みたいな気性の方でした。今は節約の時代ですが、当時全盛期の映画の撮影は、ロケーションをあえて少し残して帰ってくるの。それで後日最後のロケに行って、打ち上げをするんです。伊豆の長岡の打ち上げのとき、余興で原さんが男役、上原謙さんが女役をやって、お二人とも本当に美しかったんですよ。

橋田 きっと原さんは宝塚の男役みたいに凜々しかったでしょうね。

石井 原さんがお辞めになってからも、何度かお電話はしたんですけどね。ご迷惑かなと思ったりしていたんです。そしたら亡くなられて......。

橋田 いろんな出会いがありましたが、『恨みっこなしの老後』に書きました通り、ここまで生きていると、もう誰も恨んでいません。昔、「こんちくしょう」と腹を立てた人も、いつしか私の心のなかで、「やる気を起こさせてくれた人」に変わりました。

 石井さんは、もともと怒りをうまく転換するし、人の良いところを見ますね。

石井 私の本のタイトルにしたこともありますが、「あせらず、おこらず、あきらめず」の三つが私が大切にしていること。私にはきっと、どこかしつこいところがあるのね。

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長生きの秘訣は

橋田 ひとつしか年齢が違いませんが、あなたはあまり歳のことはお考えにならないのよね。私は九十二歳も、足が弱っていることも、何だって売りものにするけれど。

石井 年齢を言うことは、「甘え」になりかねない、と思うんです。「高齢だから手加減してほしい」というように。だから、私は年齢は言わない主義。「年を取る」というのは文字通り、「年をひとつずつ減らして、若くなる」くらいの気持ちでいます。ドラマに限らず、まだやりたいことがありますしね。

橋田 偉いなあ。私はもともとぼんやりしているのが好きだし、もう船に乗って遊ぶことしか考えていないの(笑)。他にはドラマの再放送を観るのが楽しみ。昔、忙しかった頃はドラマなんて観られなかったですからね。藤田まことさん、いかりや長介さん、小林桂樹さん......昔の俳優、すばらしいと思う。今のドラマは英語がいっぱい出てくるし、難しい。もう題名から長くて意味不明だから観ない。

石井 確かにタイトルからして理解不可能のドラマがありますよね。

橋田 今は一人で古いドラマを観るのが至福の時ですが、あなたも私も一人っ子。だから、家族がいなくても、寂しいと思ったりしない。それが長生きの秘訣かもね。

 私は周りに人がいると、リラックスできない。だから、私はお手伝いさんが来てくれている間、緊張してる。心の中でお手伝いさんに対抗していて、それがきっとボケ防止になってるのね(笑)。

 子どもがいない私は天涯孤独。心配する人もいないし、心配されることもないから、気楽で自由そのもの。夫が生きていたら、今頃世話が大変で、旅行も、書くこともできなかったでしょう。

石井 私も一人が断然楽ですね。

橋田 これから高齢化社会になって、子どもが仕事を辞めてまで親の介護にあたるようになったら、日本は先細りしてしまうかもしれませんね。八十代の親と五十代の子どもの世帯が孤立して困窮する「8050問題」なんて、本当に深刻。

 老後に子どもを頼らずに生きていけるように、若いうちから働いてお金を貯めておいて、老いてからは極力自分のために使うべき。施設に入るための資金にしてもいいし、元気な人は遊ぶためでもいい。とにかく、「あんなに世話してやったのに」と、人を恨んで暮らすのが一番もったいない。だって、子育ても、誰かの世話も、自分がやりたくてやったことでしょう。その時の喜びは自分のものだったはず。それを今さら恨むのはおかしい。恨み節を言うヒマがあったら、老後は人に期待しないで、見栄を張らずに、気楽に暮らした方がいい。そのことを『恨みっこなしの老後』に書いたのよ。

石井 私も、「してあげたこと」はその場で忘れればいいと思っています。「してもらったこと」だけを覚えていれば。

橋田 私、最近は「してもらったこと」も、忘れちゃった(笑)。でも、ここまで来ると、いろんな人に「ありがとう」しかないですよ。後は、生きている限り、元気でボケずにいたいだけ。今年も世界一周旅行に出かける予定ですから。

石井 あなたの場合、認知症予防には、書くことが一番よ。

橋田 認知症は、栄養の問題と聞いたわよ。書いてもダメよ(笑)。でも、石井さんの説得にはいつも負けてしまうわね。「もう書かない」とあれほど言った「渡鬼スペシャル」も、いつの間にか今年も書く話になっているし......。

石井 秋の三時間スペシャルを考えています。

橋田 私が生きていればね。

石井 大丈夫ですよ。とにかく、これからもお元気で、脚本を書いてください。

橋田 石井さんにもずっとお元気でいてほしい。もう私を叱ってくれる人もいなくなりましたから。あなたに怒られるのが、私の一番のボケ防止になっていると思います(笑)。

 (はしだ・すがこ 脚本家)
 (いしい・ふくこ プロデューサー/演出家)

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