書評
2018年3月号掲載
『月の炎』刊行記念特集
子供の日々の繊細な感覚
――板倉俊之『月の炎』
対象書籍名:『月の炎』
対象著者:板倉俊之
対象書籍ISBN:978-4-10-121242-5
振り返ってみれば、子供のころのあの日々は、なんと驚きに満ちていたものか、と思う。
自転車を漕いで初めて訪れた街、小川を初めて歩いて渡った日、皆既月食を見るために初めて深夜まで起きていられたあの晩。それらは世界との新鮮な出会いをもたらしてくれた。
逆に、理不尽な怒りを覚えた体験もある。親の言うことが理解できずに部屋に閉じこもっていた日。級友を殺したいくらいに憎悪した学校生活の一幕。世界は大きく複雑で、時に絶望してしまうこともあった。
誰もが発見と当惑を繰り返して大人になっていくのである。そんな多感な日々を、板倉俊之『月の炎』は描いている。
冒頭に置かれているのは、ある男が絶命するまでの短い情景だ。男は消防士であり、燃え盛る建物の中に飛びこんで命を落としたのだ。その男が物語の主人公である小学五年生・一ノ瀬弦太の父親であることがすぐに判る。弦太は母親と妹との三人暮らしだ。テストで八十点を取ったらご褒美を貰える約束を母としていて、そのお金で自分のエアロアバンテをチューンアップするためのプラズマダッシュモーターを買うことを楽しみにしている。そんな普通の小学生である。
弦太の特徴は、優しい心の持ち主であり、他の級友よりも少し強い正義感を持っていることだろうか。クラスの中で孤立している江崎くんのことを意識していて親しくなりたいと思っている。動物好きの茜ちゃんが誤って飼育小屋の兎を逃がしてしまったときは、元気づけられないものかと気を揉んだ。その飼育小屋がある日、不審火によって全焼してしまうのである。親友の星野涼介たちに声を掛け、弦太は捜査活動を開始する。愛読している『ちびっこ探偵』に倣って、放火犯を捕まえようというのだ。不審者を捜して歩き回るうちに、彼の世界は広がり、人々のそれまでは見えていなかった一面を知ることになる。
物語は、弦太のこの探偵活動を軸に進んでいくことになる。探偵団を結成することを夢見た経験がある人は、読者の中にも多いはずである。私もその一人で、自身の記憶を弦太たちの行動に重ね合わせて微笑ましく読み進めた。涼介が意味もなくおもちゃのピストルを持ってくる。これで放火犯から身を護るのだと、木の枝でパチンコをこしらえる。おお、私もそれ、やった、やった。本人は真面目な捜査のつもりなのに、楽しそうなことをしているのね、と母親がおにぎりを持たせてくれる。そうそう。大人は子供の真剣さにいつも気づかないものなのだ。遊びじゃないんだ、危険な任務なんだ。
喩えるならば、前半は三十二色の色鉛筆で描きなぐった一枚絵である。子供は欲張りだから、画面に何でも入れたくなる。お気に入りのおもちゃやちょっと気になる女の子、そしてきらきらと輝く自分の未来も。その賑やかな風景が一転して単色に変わるのが後半である。鉛筆画のデッサンのように世界は急に現実感を帯びたものになり、陰翳が画面に入り込んでくる。そうなって初めて読者は、ただひたすらに明るく賑やかだった前半部にも伏線が敷かれていたことに気づくのである。この前後半での反転と落差が『月の炎』という作品の肝であろう。気が付いたときには、弦太と一緒に世界の大きさ、理不尽さを前にして震えていることになる。
ご存じの読者は多いと思うが、作者の板倉俊之はインパルスというコンビを組んで芸人活動をしている。小説を書くのはこれが初めてではなく、二〇〇九年に初めての作品『トリガー』を発表、二〇一二年には苛酷な運命の中に投げ込まれた男を描くサスペンス『蟻地獄』を上梓している。後者は最近新潮文庫に収録されたので、本書が気に入った方には併読をお薦めしたい。着実に地歩を築いている作家であり、『月の炎』も決して芸能活動の片手間に書かれた作品ではない。芸人でもあるという肩書きは忘れて読んでいただいて結構である。
冒頭にも書いたとおり、子供の日々の繊細な感覚が再現された作品である。好ましく思ったのは、子供に接する大人がきちんと描かれていたことだ。大人の社会には厳しい決まりがあり、それを弦太も知ることになる。もし身近に弦太くらいの年頃のお子さんがいたら、目に触れるところにこの本をそっと置いてあげてもらいたい。
(すぎえ・まつこい 書評家)