書評

2018年3月号掲載

誰かさんの死の上に描かれる自分の日常

――宮崎誉子『水田マリのわだかまり』

トミヤマユキコ

対象書籍名:『水田マリのわだかまり』
対象著者:宮崎誉子
対象書籍ISBN:978-4-10-300853-8

 就寝前にときどき「死ぬ練習」をしている。布団に入って目を閉じ、「わたしは死期の近い老人で、病院のベッドに寝ているのだ」とイメージする。それから、もう寝返りも打てず、声を出すのもやっとな状態だとして、誰にどんな言葉を残すのかをかなり真剣に考える。感極まって泣くこともある。そうこうしているうちに、眠りという名の小さな死が訪れ、やがて生まれ変わったような気持ちで起床する。自分でもちょっとヤバい奴だなと思うのだがやめられない。
 なぜそんなことをするかというと、死ぬのが怖いからだ。怖すぎて、予習せずにはいられないのである。で、そういう人間が本作を読むとどうなるか......自分の死はいったん脇に置いておいて、誰かの死について考えたくなる。
 本作に収録されているのは、「水田マリのわだかまり」「笑う門には老い来たる」の2作だが、どちらの作品にも誰かの死が影を落としている。「水田マリのわだかまり」では、主人公「マリ」が、ことあるごとに同級生「美輪」のことを思い出している。美輪は、中学二年生の冬休みにビルから飛び降り自殺した女子。生前の彼女は、クラスのいじめっ子「リカ」のターゲットだった。遺書などは特に残されていないが、いじめが自殺の原因であったことは、ほぼ疑い得ない。
「即死した翌日、美輪が私の枕元に立ち『マリちゃん。忘れないでね』と囁いた時点で、傍観者から加害者になった気がして不安がぬぐえない」......美輪の味方になってやれなかったことを悔いるマリだが、べつに彼女と親友だったわけではない。むしろ、ふたりの接点はほとんどなかったと言っていい。それでもやっぱりマリは、美輪の死について考えずにはいられない。
 一方、「笑う門には老い来たる」では、主人公「笑子」の老父が、認知症の影響で「まだらボケ」状態になっている。薬を飲んだか覚えていなかったり、失禁したりもするけれど、まだ家族との会話はできるし、車の運転だってギリギリできている。ただ、この先ほぼ間違いなく症状が悪化してゆくであろう老父を、母ひとりに任せておいていいものかどうか、笑子は迷っている。いつかやってくる親の死。できれば考えたくないけれど、ちゃんと考えなくてはならないものだ。
 マリや笑子が感じている誰かの死は、とんでもなくシリアスとかトラウマティックとかいう類のものではない。でも、心に張り付いて離れない、皮膜みたいなものではある。このうっすらとした違和感が妙に生々しい。でも、勘違いして欲しくないのは、両作品が真正面から死を扱っているのではないということ。「水田マリ」なんて、ほとんどがマリの勤める工場の話なのだ。ボトルやパウチに洗剤を詰めて、それを段ボールに入れて、みたいな話がけっこうな長さで続く。読み終わる頃には、「あのラインの担当にはなりたくないな~(泣)」と思ってしまうぐらい、工場の内部に詳しくなれる。
 誰かの死を下敷きにして、その上に自分の日常を描く。だからこそ伝わってくる死のイメージがあって、それは、就寝前の死ぬ練習なんかでは決して得られないリアリティを内包している。この構造が端的かつスリリングに表出しているのは、なんといっても、いじめっ子リカが、なにをトチ狂ったのか、自分の誕生日会にマリと美輪の姉を呼ぶシーンだ。美輪の死をめぐる会話の間に、思わず「なぜこのタイミングで!?」とつっこみたくなる「あること」が起きるのだが、それがもう、見事なまでの「ザ・日常」。これについては、あなた自身の目で確かめて欲しい。ちなみにわたしは、本書に影響されて、死ぬ練習をしばらくお休みすることにした。なぜって、ひどくナルシスティックな死の練習を、自分の日常でぶっ壊してみるのもいいかも、と思い始めているからだ。

 (とみやま・ゆきこ ライター・研究者)

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