対談・鼎談

2018年3月号掲載

古川日出男『ミライミライ』刊行記念対談

文学にしかできないこと

古川日出男 × 後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)

作家デビュー20周年を機に刊行される最新長篇『ミライミライ』は第二次大戦後にソ連統治下の北海道で抗ソ運動を続けたゲリラ組織の指揮官と、21世紀に世界を魅了したヒップホップグループ「最新"(サイジン)」の若者たちの物語。
「こうであったかもしれない世界」の“歴史”と“音楽”をめぐる壮大な小説について、小説家とミュージシャンが語り合う。

対象書籍名:『ミライミライ』
対象著者:古川日出男
対象書籍ISBN:978-4-10-306077-2

後藤 『ミライミライ』、すごく面白かったです。まだ言葉にできていないことも多いんですが、読後感がとても良くて、ミュージシャンとして、エールを受け取ったような気分です。

古川 どうもありがとうございます。

後藤 古川さんの作品は中身がみっちり詰まっていて、読むのに体力も集中力も要るんですが、気づけばどんどんドライブされて、何時間も読みふけってしまう。読み終えた後、熊がしゃべり始める最後の部分からもう一度読み直して、改めて「うん」と頷きました。こう、胸に迫ってくるものがあるというか、奮い立つものがある。ミュージシャンが武器ではなくマイクを手にして立ち向かう姿が素晴らしいです。それにしても、またすごいものを書くなと半笑いになりましたよ。

古川 半笑いに?

後藤 スケールが途方もない。そして言葉にしかできないことを言葉で実現している。絶対に映像にならないような描写がたくさんあって、読むからこそ想像できる。こういうのが本当の意味で文学なんじゃないか。すごく誠実で野心的です。

古川 自分には言葉しかないですからね。戦場に行って何かするとかじゃなくて、自分が立てる場所で立って、言葉だけでやるしかない。それで人々とか国とか歴史とか何かが動くのなら、言葉をささやかながら出していくしかない。

後藤 かなりハードコアなものですよね。僕が仲間と音楽をやるときにも「この音楽、ぜったい最高なんだけど、聴いてくれる人どれだけいるかな?」みたいなことがありますが、この小説にもそれを感じるんです。ちょっと強力すぎて。

古川 音楽は今も聴かれ続けているけれど、小説は本当に読まれなくなってきている。読むのに体力が要るから。それでも生き残っている強者(つわもの)の読者向けに、その強者が唸って卒倒するような本を書けるようでなければと思っています。

音楽を書くこと

古川 これは文学の作品だけれど、音楽というものがなかったら生まれてこなかったものでもある。別のジャンルの表現に助けられて、ここまで突き詰められた。そのことが、他者と手を取り合う可能性のサンプルになったようにも感じます。

後藤 僕は、音楽のことを書いた小説って、読むときにいろいろ気になってしまうんですよ。僕ならそうは書かないとか、音のことをそんなふうに言葉で表せないとか思ってしまう。でも古川さんの書く音楽は、変に構えずに読める。まずどでかい強力なフィクションがあって、無い音楽のことを書いてるから、それを想像して必死で追いつくように読みました。

古川 実在しない北海道発のヒップホップ、「ニップノップ」ですね。さっき「半笑い」って言われて、音楽の描かれ方についてのことかと焦った(笑)。

後藤 いえいえ、半笑いというのは、パワフルさに圧倒されたということですよ。あと、ミュージシャンがマイクを取って戦うというのは、フィジカルになるということかなとも思ったんです。ペンとノートではなくてマイクだから、これは「発語せよ」みたいなことかなと。書くだけじゃなくて音にして発すること。

古川 声というのは声帯を震わせて胸郭を震わせて空気を振動させて、それによって離れている人の鼓膜も震わせるという、要するに空気を介在させて触ることなんですよね。発語することで、声を出す側も聞く側もフィジカルに、意味を論理で解析する以前のところで考える。それがまさに、音楽を媒介に文学をやりたかった、やったことの意味ですね。

歴史書としての小説

後藤 本の厚さよりずっと大きなものが入っている感じがするんですよね。雑誌連載時には、これは辞書みたいな厚さの本になるんだろうと思っていた。結果、三百ページ台の本になりましたが、それよりずっとボリュームがある感じがする。

古川 これは歴史書なんだと思います。まずこういう歴史が、つまり実際にこういう土地や時間や国々が、膨大な文章、映像、音楽にもできるような世界が存在して、それを僕が三百数十ページに編纂していった。そういうものではないかと。

後藤 いま日本はたまたまこうなっているけれど、そうでなかった可能性ももちろんあった。別の歴史がこの本でどしっと提示されて、読む者は思考をドライブさせることができる。ふだん無批判に受け入れている何かがぐにゃっと形を変える。もしかすると戦後、北海道という巨大な土地で、こんなふうにゲリラが立ち上がっていたかも知れない。彼らの動きに、読んでいる自分もミュージシャンとして巻き込まれていく感じがしました。

古川 最初は北海道を書くつもりはなかったんです。これまで、自分がわかる土地として書くには津軽海峡がリミットだと思っていた。でも後藤さんに一緒に沖縄を見て欲しいと言われたときに、ふと「次作では北海道を書くんだ」と悟った。

後藤 実際に沖縄に行く前なんですね。

古川 沖縄で戦跡や基地を一緒に見て、アジカンのライブも見ましたが、その体験の前ですね。沖縄を見るということになったときにもう、鏡の中で反転された像みたいに北海道が見えてきた。

後藤 僕にはアイヌの友達がいるので、彼らはどう読むのかなと思いました。

古川 それは本当に気になるところだし、だからそこはぜったい誠実にやろうと思いました。アイヌのことをわかったように書くわけにはいかない。それで最初はアイヌのことを書くまいと思っていたほどなんです。

後藤 でもどうしても、地名を書くところから、アイヌについて書くことからは逃れられないですよね。

古川 そう、北海道の小説を書き始めたら、アイヌ語は自分の言葉にもう入っている。それは冒頭から自覚して、書くまいとするのではなく、決して嘘を書かないという形に変わった。校正のときに読み返したら、アイヌへの言及はかなり増えたけれどうまく行っていて、ほっとしたし自分が少し誇らしくも思えました。

フィクションの必要性

後藤 そして全体としては、インドと日本が一つの国家を形成している世界の話ですね。どえらい物語です。

古川 最初に作品の設定を編集者に説明する時、すごく困りました。とうとうおかしくなったと思われるだろうなと。

後藤 インドと日本が一緒になったら、人口は世界一になるんですね。

古川 そう、中国より少しだけ多くなる。そのことも作品のポイントの一つです。そして、前から思っていたのは、なぜ一つの領土の中には一つの国しか入れられないのかということ。たとえば、エルサレムをイスラエルとパレスチナの両方の首都に、あの地域全体を二つの国にしちゃってもいいんじゃないか。そういうことを実際にやったらどうなるのか。もしインドと日本が一緒になって、どちらの国もあるとしたらどうなるのか。

後藤 境界が溶けた世界を考えてみる。それもやはり、書く人にしかできないことだと思う。日本のラッパーがインド映画に出たり、学校ではインドの言葉も入って三か国語教育が当たり前とか。

古川 インドと日本が一つの国だったら、アジカンっていう名前の意味もまた違ってきますね。まさにアジア全域から来たバンドみたいになる。

後藤 北海道のことを考え始めると、沖縄もそうですが、どこまでが日本かということを考えざるを得ないですよね。この作品にはインドも入ってくるから、さらに違った広がりが出てくる。国家という概念を、僕はずっと疑ってるんですが。

古川 疑ったほうがいいと思う。僕は国家と民族の両方を疑おうと思っている。言葉と音楽を信用して民族と国家は一度疑ってみる、その実験のために格闘して書き上げたのがこの作品かも知れない。

後藤 文学って、どうしても内側に向かうものになりがちだと思うんですが、この本は現実世界で起きていることへのレスポンスでもありますよね。

古川 事件であれ政治のことであれ、何かとんでもないことが起きたときにそれをそのまま書くと、自分たちが世界で一番の被害者や加害者に思えてきたり、それが歴史上初めて起こった特別なできごとだと感じたりしてしまう。でも結局、いま自分たちが体験することは、世界中で起きていて、過去にも起きていて、これからも繰り返される。だから実際のできごとから想像力や教訓や、そういう善きことを最大限に引き出すには、フィクションをぶつけることがどうしても必要なんです。それによって、一つの事件は神話のような広がりを持って見えてくる。この小説はずっとそういうことを考えながら書いていました。

後藤 執筆期間が、アメリカに行かれた時期と重なりましたよね。

古川 アメリカで執筆中にトランプの就任式があった。世界がおかしなことになってくるのを目の当たりにして、これを全部体に取り込んで、自分の脳味噌っていうブラックボックスを通して出していく、演奏していくっていうのかな。いろんな素材の音を拾って、一曲に編んで、いっぱい重ねてミックスして出す、それがどうしても必要だという気がしていました。

古川作品と熊

後藤 古川さんの作品で『冬眠する熊に添い寝してごらん』という戯曲もありますが、今回も熊が活躍しますよね。洞穴に入って母熊と一緒に寝るシーンがいい。

古川 アイヌの熊送りの儀式についても調べたことがあるので、そういうものを書くこともできたんだけど、それとは違う書き方をしなくてはと思った。アイヌの文化から見て未来にいる自分が新しい儀式みたいなものを書こうとしたら、ああして熊と添い寝する以外ないと思いました。ヒグマというのは津軽海峡より南にはいないし、ツキノワグマは北海道にいないんです。そこに実は境界線がはっきりあって、印日連邦ができようとヒグマにとっては北海道は北海道のままで、作られた国境なんて関係ない。そういうシンボルとしての意味もあります。

後藤 そう考えると動物園のシロクマも。

古川 国境を越えて集めてこられて、多民族共生の理想郷の象徴みたいなものだったのが、ソ連の襲撃の時に殺されてしまう。すべて意識的に書いているというわけではないんですが、いろんな読み取り方ができますね。

後藤 古川作品の「熊」には、ちょっと注目してるんですよ。洞穴に入っていくと熊がいるというのは、村上春樹の「井戸」的なものなのかとか。犬や猫でも馬でもなくて熊だからこそ、冬眠から覚めたりステージに出たりもできる。

古川 数年前にロシアのサーカスでステージに上がる熊を見ていて、それが影響しているかも知れません。

答えではなく問いを

後藤 読むうちに、たとえば「インドと日本に国境が無くなったら、俺たちの音楽もインド音楽になる、面白い、でもほんとにそうか?」とか「国がつながったとしても、南インドの音楽はやっぱりあそこにしかないんじゃないか」とか、小説の中からいろいろ持ち出して、どうしても自分の中で練ってしまう。問いが湧いてきてしまう。

古川 そういう考えの種になれるのは本当に幸せなことです。僕は小説に答えを書くのではなくて、自分が悩んで悩んで答えが出ないような問いを書いている。

後藤 ラストシーンもある種の問いですよね。

古川 実はもっとわかりやすい結末が頭の中にあったんだけど、それは全部捨ててしまったんです。自分でもびっくりしたけれど、でもそうしなくてはいけないと思った。熊人間が映画の外に出て行ったように、主人公は物語の外に出ていかなくてはいけないし、読者は読んだ後に自分の人生に出て行かなくてはいけないんだと、それだけは誠心誠意伝えておきたいと思って、あの形になりました。

後藤 読んだ人たちは、読後それぞれに、物語から受けた戦慄を携えて自分の人生に出て行くわけですね。

古川 それに旋律も。

後藤 戦慄と旋律を携えて。

 (ふるかわ・ひでお 作家)
 (ごとう・まさふみ ミュージシャン)

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