書評
2018年3月号掲載
ギャグよ、うつくしいギャグ
――ウラジーミル・ナボコフ『処刑への誘い 戯曲 事件 ワルツの発明』
対象書籍名:『処刑への誘い 戯曲 事件 ワルツの発明』
対象著者:ウラジーミル・ナボコフ著/小西昌隆/毛利公美/沼野充義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505607-0
なんだ、このナボコフ?
『事件』冒頭の1ページを読み、つい、つぶやき声をもらしてしまった。なんだ、なんなんだこの、ギャグまみれ、冗談だらけ、ボケまくりのナボコフは?
けれども、冷静にふりかえってみれば、この作家はいつだって、その繊細なことばのタペストリーのうちに、笑いの糸を確信的に織りこませてきたのだ。
ニューヨーク在住の翻訳者・友人が、生涯のベストに「ロリータ」を挙げ、高校生ではじめて読んだとき、一行目から、もう、おへそのかたちが変わっちゃうんじゃないか、と思うくらい笑った、と教えてくれた。
「ギャグよ、うつくしいギャグ」
少女に肉薄していくハンバート・ハンバートの大仰なつぶやきや、ふたりが旅していくアメリカの、ヘンテコな風景を思いかえしてみれば得心する。「うつくしいギャグ」は、すなわち、「笑える悲劇」にほかならないと。
『事件』には、いみじくも「三幕のドラマ的喜劇」という副題がつけられている。画家(どんな絵を描いているかさっぱりわからない)トロシェイキンは、冒頭で、絵のモチーフであるボールを、どたばたしながら探している。妻リュボーフィの目にはその様がどうにも我慢ならない。目の前で展開されるのは、モンティ・パイソンさながらのナンセンス劇だ。
ふたりは三年前に二歳の息子を亡くしている。夫はその気配を生活から流し去りたい。妻は大切な記憶として永遠にとどめたい。ふたりに関わりのある、とある犯罪者が、早々に刑務所を出た、という知らせが届き、夫婦の時間は、こわれた回転木馬のように、ぎっこんばったんまわりはじめる。
妻の母は、物語を書く作家だ。この日迎える誕生日を祝うため、友人が集まってくる。また、犯罪者にまつわる続報を携え、夫婦の知人も次々と来訪する。
みな喋りまくっている。が、誰ひとり、誰かと意志を通じあわせようとしない。ダブルボケ、どころか、総ボケだ。だがしかし、永遠に記憶される漫才・コントが、いつもそうであるように、ボケとボケの呼吸、間合い、リズムが、一点のずれもなく、すべて「そこに、そのようになければならない」という場所に、精緻に収まっている。
「うつくしいギャグ」。笑いのタペストリーが、奇跡のように目の前を過ぎていき、あとにはなにも残らない。トロシェイキンのこころは救われない。リュボーフィもまた。かなしみ、喜びの果ての薄闇へ、ふたりは置き去られる。
『ワルツの発明』は、そのままマルクス兄弟の新作台本として使えそうだ。
大臣、大佐のいる部屋に、発明家のワルツがやってきて、「遠爆(テレモール)」なる発明品で、窓外にみえる、風光明媚な山を吹っ飛ばす。騒然となる町。そこへ、ひらりとしのびこんでくるジャーナリストの「ゆめ」。「ゆめ」は、男でも女でもかまわない、とナボコフは書いている。ということは、現実でも虚構でも、人間でも空気でもかまわない。そんな「ゆめ」が、まわりつづけるレコードの穴のように、作品の中心にたえず位置している。
ほかに次のような名の人物が、役柄をとっかえひっかえしながら舞台に登場する。
ベルク。ゴルプ。ゲルプ。ブリク。ブレク。グリプ。グラプ。グロプ。グルプ。ブゥルク。ブルゥク。執務室で、軍事会議で、これらの将軍たちは一斉にボケまくる。そうしてベルクはいつも「ゲラッ、ゲラッ、ゲラッ」と笑う。
核兵器についてまだ広く知られていなかった時代に、まさにそのもの、といった大量殺戮兵器を予言したことに、ナボコフ自身、誇りに思っていたらしいけれども、作品を俯瞰してやはり強くこころに残るのは、兵器としての非人道性より、ワルツや将軍たちの、人間としての非人間性だ。人間でなくなっていくことを、これほど精密に、距離をはかって書き、それでいて肌触りがあたたかいことに驚嘆する。
ナボコフは衒学趣味の作家でも教養人でもない。つねにひとの思い込みの上を飛んでいく。夢かタペストリーのように軽やかに通過しながら、その軽さにふさわしい笑みを浮かべている。ナボコフの笑いはいつも透きとおっている。だからこそ、うつくしく、そして、かなしいのだ。
(いしい・しんじ 作家)