書評・エッセイ

2018年4月号掲載

『草薙の剣』作家デビュー40周年記念特集

幻想と挫折の向こうへ

――橋本治『草薙の剣』

津村記久子

対象書籍名:『草薙の剣』
対象著者:橋本治
対象書籍ISBN:978-4-10-105419-3

 電車や喫茶店で偶然すれ違うような人の人生こそが秘匿されていると強く思うことがある。特急で席を譲ろうとしたら「いいわよいいわよ」と笑いながら強く断ってきた老嬢や、ある駅で「回数券に領収書は出せない」とむやみにあしらってきた、昔は男前だっただろうという顔立ちの中年の駅員の人生を、わたしはどれだけ知りたくても知ることはできない。他の見ず知らずの他人に関しても、これだけ自分語りの道具があらゆる人間に開かれた時代になっても、知ることができるのは編集が加えられたその人自身のある側面だけであって、実感とは平行線のままだ。
 それだけ目に見えにくいものでも、自分には他人について知る必要があると思う。権力があったり声がでかかったりする人が図面を引いた「こうだよ」ではなく、一つ一つの実感を積み上げてできあがる「本当はこうなんじゃないか」の土台が欲しいのだ。無数の個人がうごめく世間を、概要ではなく一人一人の実感の側から知るのは難しい。想像することすら骨が折れる。わたし自身も、自分の親の気持ちさえ想像できないし、わかろうともしていない気がする。本書では、そのひどく困難な作業が実を結んでいる。貪るように読んだ。
 第二次世界大戦の後の日本人についての図鑑であるように思えた。戦後の苦しみから復興を経て、外部から示される豊かさを忠実に追いながらやがて挫折し、東日本大震災後の荒地を心に刻みつけるまでの、集団としての日本人の変化が、様々な時代の登場人物の人生の一場面を通して描かれる。本書で描かれる戦後の日本人の姿と切っても切れない関係にあるのが、その時代の人々を取り巻いて腕を引いてくる、執拗な幻想の在り方である。一九七〇年代の始めを生きる昭生の兄の、傲慢さすら通り越した「欲しいものは時代と都会がその場その場で与えてくれる」とでもいうような浮遊の感覚、一九八〇年代の初頭における夢生の母親が自らを「永遠の少女」とみなす万能感、一九八〇年代の終わりで常生の母親がトレンディドラマを観ているときに感じさせられる「既に豊かなのに、まだそれより上の豊かさをこそ〈中流〉のように示される」ことの苦しさなど、登場人物たちの気分はその時代の高揚の裏面を的確に映し出す。これらの時代の残映は、一つの属性のように受け継がれ、どこか地に足が着かなくて、根拠のない万能感を隠し持っていて、そこそこ豊かなのに足りないものばかり数えている今の日本人の姿をも批評しているように思える。
 継承が断ち切られる事態も、本書では容赦なく書かれる。もっとも顕著なのは、戦後を生き抜いた豊生の父と、五十歳を過ぎても定職に就かない豊生という対照的な親子だろう。納得のいく学歴を持てなかった父は表層的に息子へその無念を託そうとしたものの、息子はやはりそれに表層的に反発して、「自由」の名の元に人生を使い果たそうとする。彼らのほか何組かの、理解し合えないながらもどこまでも特別ではない親子の齟齬を示されながら、親子という関係が確保してきたはずの信頼すらも、本当は幻想なのではないかと思えてくる。親は子を幸せにできるとは限らないし、子が親を幸せにしてくれる保証はない。役割と役割が保証するのは扶養の義務であって、幸福は各々が見つけようとしなければ訪れないのだ。最終盤における「がんばったら何でも手に入る」という通念を過信しているかのような凡生の母親と、彼女と戦えないその夫である父親に対して、凡生が精一杯の反発を試みる場面には、親子の解体を、家族の幻想が叶えられなかったからというような曖昧な理由では決して受け入れないという強い身振りがある。
 ずっとがんばってきた。数十年かけて、豊かさや安定を手に入れた。なのになぜこんなに満たされないのか。終わらない不定愁訴の本質には、外側から提示される豊かさを忠実に追い求められる日本人の性質と、表裏一体と言える幻想への盲信があるのではないかと本書を読むと思えてくる。過去は変えられない。過去が積み上げてきたものだってある。けれども、失望も知ったのだ。凪生がある時点で感じるように、「僕達はここからスタートするしかない」。本書はその場所において、日本人が見たどんな幻想が自分たちの重荷になってきたか、何を捨てるべきなのかを、改めて考え直させてくれる本であるように思う。

 (つむら・きくこ 作家)

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