対談・鼎談

2018年4月号掲載

座談会

文士の子ども被害者の会 Season2 前編

阿川弘之長女 阿川佐和子 × 矢代静一長女 矢代朝子 × 阪田寛夫長女 内藤啓子

あの父の娘に生まれた(少しの)∃ロコビと(多大な)メイワク。
涙なくして読めない大好評シリーズ、第二弾!

阿川 私は作家阿川弘之の娘でございます。父は2015年に九十四歳で亡くなりました。没後あらためて振り返りますと、自分を含めて文士の娘や息子たちはいかにヒドイ目に遭ってきたことかとつくづく思い至りまして、これは歴史に残さないといけない(会場笑)、そう考えて、「文士の子ども被害者の会」というシリーズ座談会をしようと思い立ちました(会場笑)。今日は二回目です。まず、向かって一番左に座ってらっしゃるのが――。

矢代 劇作家矢代静一の長女で矢代朝子と申します。父が亡くなったのは1998年1月11日でしたから、もう二十年たちました。

阿川 そして真ん中にいらっしゃるのは、このたび新潮社から『枕詞はサッちゃん――照れやな詩人、父・阪田寛夫の人生』という本を出された、詩人で作家の阪田寛夫さんのご長女の阪田、じゃないや、お嫁に行って内藤啓子さんになられています。私の幼馴染でもあります。

内藤 他のお二人と違って、人前で喋ったりすることに慣れていませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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阿川 まずは、それぞれどういう顔の父親だったか見ていただきましょうか(上)。これは父と母、それに大学二年生ぐらいの私です。一応、家族構成を申しますと、母と父の間に子どもは四人おりまして、まず昭和二十六年に尚之という長男が生まれ、二年後に私、私から八歳離れて知之という弟が生まれて、それで十分だろうと思っていたら、私が大学一年の時にもう一匹、淳之って弟が生まれました。実は私の子どもなのを隠して父の子にしたんじゃないかという噂がありましたが、ウソですから。では、はい、次は啓ちゃん。

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内藤 これ(右)、『枕詞はサッちゃん』にも書きましたが、中野区鷺宮の公団住宅に住んでいた時のわが家の庭ですね。当時としては小洒落た、全部で二十軒あるメゾネット式の団地で、そこに阿川家もお住まいでした。

阿川 そう、まあまあ洒落た団地でしたね。小さい庭があって、芝生があって、お風呂もついてて。同じ敷地内で一番外側の、通りに面したところに阪田家が住んでいらして、うちが一番奥まった場所にありました。そんなご近所でしたから、啓ちゃんとはちっちゃい頃から仲が良かったんです。これは左が啓子ちゃんで――。

内藤 右が妹、なつめ。のちに宝塚歌劇団に入って、芸名大浦みずきとなります。

阿川 なっちゅん、と私たちは呼んでいました。宝塚ではもうバリバリの男役で、めちゃめちゃ踊りがうまくて、「宝塚のフレッド・アステア」とまでいわれた大浦みずきさんですけど、この頃はひたすら泣いていましたね。

内藤 この頃は泣き虫でしたね。

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阿川 あら、これはまた素敵なお写真(上)。

内藤 これは私が結婚する直前に撮った親子四人の記念写真です。ちょうどなつめも宝塚の花組で二番目のスターに異動する時で、その記念もあって撮りました。

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阿川 次は矢代静一さんです(右)。右は阪田さんですね。

矢代 やっぱりタバコ吸ってますねえ。父はすごいヘビースモーカーでした。阿川先生は?

阿川 ある時期まではヘビースモーカーでしたね。

矢代 私の子どもの頃の仕事は、父の書斎のいっぱいの灰皿とダメになった原稿でいっぱいのゴミ箱を取り替えに行くことでした。タバコの吸い殻で灰皿が山になってて、机が妙にこげ茶っぽいなあと思って指でなぞるとヤニがついた(会場笑)。それくらい吸っていましたね。でも、当時の作家の方はみなさん、そうでしたよね。北(杜夫)先生も前髪がヤニで茶色くなっちゃってて。

阿川 昔の男の人で白髪の方は、前髪がヤニのせいでよく色がついていましたね。阪田さんは?

内藤 全然吸いませんでした。代わりに妹がヘビースモーカーになっちゃった。

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矢代 これ(上)は遠藤周作先生と父ですね。キリスト教作家同士で、遠藤先生は父にとっては兄のような存在でした。

阿川 矢代静一さんは、『北斎漫画』『写楽考』などで知られる劇作家ですが、もともとは役者志望でいらしたんですよね?

矢代 父の場合、役者志望というより「戦争で、どうせ兵隊にとられちゃうんだったら自分が好きなことをしてから死ぬなら死のう」って発想だったんじゃないですかね。

阿川 何年生まれでいらっしゃる?

矢代 父は昭和二年、銀座の商人の家に生まれました。

阿川 靴の「ヨシノヤ」ですよね。

矢代 ええ、つまり銀座通りに面した店舗の上の家で生まれているんです。当時そういう表通りのお店には、歌舞伎座、演舞場、日劇、宝塚劇場とか、いろんな劇場が「ポスターを貼ってほしい」って持ってきたらしいんですね。そのお礼に、招待券がいつも二枚ついていたそうなんです。でも、親は店があるから、芝居を見るヒマがないくらい忙しい。となると、子どもに回ってきて、矢代静一少年はお手伝いさんとか小僧さんとかと一緒に劇場へ通い始めたんです。

阿川 贅沢な環境!

矢代 父がエッセイに書いてたエピソードですが、昔、ヨシノヤは日劇や松竹、宝塚のも、舞台靴やバレエシューズなんかを全部作ってたんですね。松竹少女歌劇で当時大人気の水の江瀧子さんが『真夏の夜の夢』をやった時、主人公で出ていらした。そのターキーさんが履くブーツを、職人さんが作っていたんです。その時は大口発注で猫の手も借りたいくらいで、父も色を塗るのを手伝ったらしい。

阿川 すごいぞ。

矢代 自分も塗るのを手伝った銀のブーツがあって、小学生の父が「これはどんな人が履くんだろう?」って少年心に胸ときめかせて、歌舞伎座に女中さんと観に行ったら、きらびやかな照明に照らされ「ぼくの靴をターキーが履いてた!」。父が芝居の世界に進んだのは、そんな〈夢の世界〉が身近にあった原体験が大きかったと思います。

阿川 お父さま、ごきょうだいは?

矢代 弟と妹がいます。長男でしたからお世継ぎ(会場笑)だったんですけれども......。

阿川 では、ヨシノヤ会長とかになるところを......。

矢代 それは無理。父はお金の計算、無理だから(会場笑)。それで、子どもの頃から劇場へ通い詰めていて、どこか芝居の世界に憧れていたんですね。そこへだんだん戦争が近づいてきた。

阿川 昭和二年生まれということは――。

矢代 俳優座の研究生になったんですよ。旧制高校の頃。仮病をつかって学校を休学して、研究生と言っても、父に言わせると、若い男はみんなもう戦争に取られていたから、大道具を担ぐスタッフとか、若い役をやる俳優とか、何でもやらされる人員だったそうです。さっきも言いましたように、父は俳優になりたいとかいうレベルではなく、とりあえず兵隊に取られて死ぬんだったら、その前に自分の好きなことをやろうと思って俳優座の門を叩いたわけです。千田是也先生とか青山杉作先生とか、錚々たる大御所の先生方の書生みたいなこともしていたようですが、もうその頃は『みんな手を貸せ、芋が行く』とか、国策的な芝居しかできなくなっていました。

阿川 敵国の芝居だからシェイクスピアとかできないのね。

矢代 そうそう、それで芋の役ですよ、ずだ袋に入って、顔も出せないまま、袋の中でゴロゴロするだけの役を東野英治郎さんなんかとやってたらしいです。
 当時、俳優座の芝居はちょっとロシア系というか、社会的な主張のあるものが多かったんです。父はやっぱり銀座育ちで、歌舞伎とか宝塚とかも大好きでしたから、方向としては文学的な芝居を志していたと思うんですね。芥川比呂志さんや劇作家の加藤道夫さんとの交流もあって、俳優座から文学座へ移ることになった。その時に千田是也先生に宛てた手紙の下書きが残っていますが、青いというか、純粋に「僕は演劇は文学だと思います」みたいなことが書いてありました。子どもの時から宝塚をずっと愛していたというのは、阪田先生と同じですよね?

内藤 ええ、そうです。

阿川 阪田さんは宝塚の本場というか、大阪生まれですよね?

内藤 大阪です。でも地元の高校に落っこちて、旧制の高知高校に行って、そこの寮で三浦朱門さんと相部屋になったんですね。三浦さんは校内で三番目の不良なので、父はビビッていたらしいんですけども。

阿川 のちの文化庁長官が不良で、しかも一番じゃなくて三番目というのがおかしいね(会場笑)。

内藤 寮の天井裏に喫煙室を作ったり、ケンカして七人くらい投げ飛ばしたりして、停学を食らったりもなさってて。でも三浦さんは大の読書家でもいらして、父は勧められて本を読むようになったんですね。それで詩を書くようになって、三浦さんだけに見せたりもしていたそうです。

阿川 でも、童話はそれ以前から書いてらっしゃったんですよね。

内藤 父の死後、片付けをしていましたら、子どもの頃の落書き帳が出てきまして、ヘビが火事で焼け死んじゃったという悲劇(会場笑)なんかを書いてたみたい。

阿川 私が子どもの頃ビックリしたのは、さっきの鷺宮の公団住宅へ幼稚園の頃に入居しましたら、同じ敷地内に阪田さんという家族がいらした。この方々が二年ぐらいで引っ越されたと思ったら、今度もまた同じ名前の阪田さんというご一家が入ってこられた。これが啓ちゃんたち、阪田寛夫さんご一家。

内藤 前に住んでいたのは父の兄夫婦なんです。

阿川 前の阪田さんのご主人の弟さんが寛夫さんで、寛夫さんは前の阪田さんちの奥さんの妹さんのトヨさんと結婚したんですよね?

内藤 そう。ややこしくてすみません。

阿川 なんで、そんなすごく近い人同士で? 親戚を増やすのが面倒くさいとか?(会場笑)

内藤 伯父と伯母は恋愛結婚で、家も近かったんですね。行き来は結婚前からあって幼馴染みたいなものだし、面倒な親戚をこれ以上増やしたくないしで、互いの弟と妹をくっつけちゃおうってことになりました。父はもともと母を憎からず思ってたようですけれども、母はいろいろボーイフレンドがいたらしくて、「でもまあ、みんなが結婚せえって言うから、しゃあないからした」。で、父に「どうしてもあなたは好きになれない」(会場笑)。

阿川 その話を『枕詞はサッちゃん』で読んで驚きました。

内藤 両親の夫婦喧嘩は本当にすごくて、父が「朝日放送を辞めて、これからは文筆一本で行く」と言い出した時、もちろん周り中みんな反対したし、特に夫婦喧嘩が毎日ものすごくなって、ついに「明日別れる」みたいな......。

矢代 もう離婚寸前。

内藤 寸前も寸前。そこで急に父が私と妹に向かって、「今日から俺を『オジサン』と呼べ」。なぜかと言うと、「俺はこれから母ちゃんと別れて、いずれ別の女の人と結婚する。そこにまた子どもが生まれるかもしれないから、新しい家族がおまえらにバッタリ道で会った時、おまえらが俺のことを『父ちゃん』つったら、新しい家族に悪いだろう」(会場笑)。

阿川 啓ちゃんとなっちゅんには悪くないのか?

内藤 ねえ。でも、当時は素直だったので、(あ、そういうものかな)と思って(会場笑)。結局、離婚しなかったんですが、それからは父のことは「オジサン」。で、「オジサン」と「母ちゃん」も変なので、母のことも「オバサン」と呼ぶようになったんです。私が小学校五年生の頃かな。

阿川 じゃあ、なっちゅんは四歳下だから小学校一年生? まだ意味はわからなかったかもしれませんね。

内藤 でも、これが後年困ったことになりまして、母は三回ほど危篤状態になったし、父も今わの際になった時に、お医者さんや看護師さんが「聴覚は最後まで残るから、娘さんから呼びかけてあげなさい」って言われるんですよ。それで「オ」まで言ってね、「あ、まずい」と(会場笑)。ここで私がオジサンとかオバサンとか呼びかけると、病院が多大な不審を抱くんじゃないか(会場笑)。仕方なく、父には「寛夫さん」とか、母には「トヨさん」って名前で呼びかけて。

阿川 普段は名前で呼んだことないのに(会場笑)。

内藤 そう。で、母は気がついたようでしたけど、父は気がつかなかったみたいで、そのまま逝っちゃったんですよね。慣れない名前で呼ばれたせいかもしれない(会場笑)。

阿川 私にとっては、同じ敷地内に阪田家――新しい第二の阪田家(会場笑)――が引っ越してきてくれたおかげで、女きょうだいがいなかったから、近所に年の近い女友達ができたことが嬉しかったんです。それと、どうやら阪田オジチャンもうちの父と同じように原稿用紙を相手に仕事をしているらしいと。でも、阪田オジチャンは大変静かに二階にこもって、ずっと仕事をしてらっしゃる。うちの父は大変静かじゃないというか、子どもが煩わしくてしょうがないから、友達を家に呼ぶなんてとてもできない。なので、もっぱら私が阪田家へ行っては啓ちゃんやなっちゅんと自由気ままに遊んでいました。阪田家へ行くと、賛美歌やピアノをはじめキリスト教の家の雰囲気があって、なんかモダンなの。昭和三十年代半ばのことなのに、アイスクリーム製造器とかもあって、それから初めて生クリームのケーキを頂いて――それまでバタークリームのケーキしか食べたことがなかったので、世の中にこんなにおいしいケーキがあるんだと思ったのも阪田家での経験でした。阪田家へ行くと、おいしいものと楽しい気持ちと、うるさくしても怒られない自由さがあって、私は入り浸っていました。

内藤 伯父伯母が引っ越す時、わが家に引き継ぎ事項があって、「阿川家の前では騒いではいけない」(会場笑)。

阿川 え、ホント?

内藤 うん。あそこの前で子どもがうるさくすると、阿川さんが必ず窓をガラッと開けて、「うるさい! あっちへ行け!」。

阿川 やってたのよねえ。

内藤 その「うるさい!」って怒鳴る声のほうがよっぽどうるさいんだけど(会場笑)。

阿川 だから、啓ちゃんでも誰でも近所の子どもたちは、うちの前の砂利道を通る時だけ、みんな抜き足差し足だったとか。

内藤 そう、それまでどんなに追っかけっことかしてても、阿川家の前だけはみんな静かぁに通ってた。

阿川 知らなかった......。矢代家も「うるさい!」が出るんですよね?

矢代 うちは阿川家と同じですね。私たち、とにかく静かにしていましたよ。作家の方はみなさん同じだと思いますが、ものを考えている時の顔ってニコニコしてないじゃないですか? 絶えず苦虫かみつぶしたような顔して、「あー」とか言いながら家の中にいるわけですよ。目が合っても、不機嫌な顔のまま。何も悪いことしてなくても、「うるさい!」って言われる。

阿川 うちの父も大体、眉間にしわが寄っていましたね。私が少し大きくなってからだけど、父が出かけるとホッとするわけです。機嫌の悪い動物がいなくなるわけだから。やっとホッとして、電話かけたりしていると、切ったとたんにリリリーって鳴って、「俺が家にかけると、必ず話し中だ!」と怒鳴り声が聞こえる(会場笑)。

矢代 うちも電話問題はありました。「いつ仕事の電話がかかってくるかわからないんだから、電話は短くしろ!」って、すごい怒られました。

阿川 普通のうちと違うのは、作家の家はいわば会社と家庭が同じなのだから、家族が会社電話で友達なんかと無駄話をするのはよろしくないに決まってる。だから、うちのは仕事用の電話機だと思え、長電話は断じて許さん、と。

矢代 同じ同じ(会場笑)。

阿川 最初は電話の前に砂時計を置かれたんですが、子どもたちが言うことを聞かないから、電話は一切使用禁止になって、しょうがなく公衆電話に十円玉を盛り上げてかけていました。友達が「糸電話でも作ったら?」って笑ってた(会場笑)。電話事件はいっぱいあります。

内藤 うちは狭い家に二台ありました、電話。

阿川 あら、素敵じゃない。

矢代 それは家族用とお父様用ですか。

内藤 そうです。

矢代 だから、私ね、そこが阪田家がすごく矢代家や阿川家と違うところだと思う。子どもをちゃんと尊重するんだもん。

内藤 尊重しているのとは違うと思うけど。

阿川 いや、だって私たちは人権なかったもん。「私たち」って、ゴメン、矢代さん(会場笑)。

矢代 ホント、うちや阿川家は人権がなかったんですよ。

阿川 ないよね。「養われているうちは、おまえらに人権はないと思え」とハッキリ言われた。

矢代 要するに、父親ですべてが回っているんです。父のおかげで生活ができているんだ、って思想ですよ。母が「パパが書かなかったら、うちは生活できないのよ」って子どもたちに言い聞かせていましたからね。

阿川 お母様はそういうポリシーだったのね。

内藤 うちはオバサンが強かったから。あ、オバサンって母です(会場笑)。

矢代 その違いはあるかもしれない。

内藤 ええ、うちはオバサン中心でした。

阿川 それちょっと新鮮だわ。力関係が逆なんだ。

矢代 阪田先生は逆襲とかしないんですか?

内藤 オジサンはひたすら陰々滅々としていくんですよ。オバサンに何か言われると、「俺はダメだ」とか言って。

矢代 うちの父が困るのは、お酒飲むと豹変しちゃうんですよ。

阿川 どういうふうに?

矢代 もう人が変わったかと思うぐらい、良く言えば、かわいくなるんです。あんなに怒っていた人が、お酒飲んで陽気になると、フニュってかわいくなっちゃうんですよ。子どもには、そのギャップが不思議でした。阿川先生も明るいお酒のほう?

阿川 うちの父はどこで機嫌が悪くなるかがわかんない。

矢代・内藤 ああー。

阿川 例えば「アガワんちは門限はないの?」って友達に訊かれるんだけど、「あるようでない」としか答えられなかった。要するに「十時までに帰ってこい」と言われてても、日によっては十時過ぎても大丈夫なのよ。

矢代 あ、そこも同じだ(会場笑)。

阿川 翌日が麻雀だったりすると機嫌がよくて、「おお、遅かったな」ぐらいの感じなんだけど、ところが九時に帰ってきても怒る時は怒るでしょ? それから、「今日は何時に帰ってくるんだ」って言うから「五時頃かな」って答えて、それで五時十分ぐらいに帰ると、もう激怒ですよ。

内藤 ええー?

阿川 だって時計の秒針を見ながら、「おまえは一体どういうつもりで遅くなったんだ! 俺は十五分前からここに座ってずーっと時計を見ていた」。そりゃ、じっと十五分も待っていたら腹立つわよね(会場笑)。

矢代 すべては自分の生理で動くんですよね。だから、機嫌がよければ別に十二時になっていようと構わないけど、機嫌が悪かったら六時でも怒る。ロジックじゃないの。

阿川 なんで怒られてるのか、しばしばよくわからなかった。こっちも試験の前とか、なるべく早く晩御飯を済ませて自分の部屋に戻りたいと思っている日ってあるじゃない? そういう時にまた、「おお、メシか。おい佐和子、サンドイッチ作れ」とか言い出すんです。なぜだかオードブルにハムとキュウリのサンドイッチ食べたいって。そうすると、パンを薄ーく切って、キュウリを薄ーく切って、ハムを薄ーく切って、パンを軽くトーストしてバターを塗って、からしも塗って、って準備しなきゃいけない。しかも、「酒はマルティニだ」と。父は自分で作るドライ・マルティニが好きだったんですけど、道具を出して準備するのはこっちなんです。シェイカーとか道具を全部揃えて、グラスをギンギンに冷やして、水っぽくならないように注意しながら氷も用意して。

内藤 いい娘ですねえ(笑)。

阿川 だって絶対服従だから。それである晩、「おい、サンドイッチ作って、あとマルティニの用意しろ」って言われて、「はい」と言いながら右向いて、思わずハァーってちょっとため息をついたの。途端に「何だ、今のため息は!」(会場笑)。「出ていけー!」と。そんな「ため息一つで出ていけ事件」というのがありました。

内藤 お話を伺っていると、いい面もあるわけじゃないですか。

阿川 え、いい面ですと?(会場笑)

 於・新潮講座神楽坂教室
 (後篇はこちらから)

 (あがわ・さわこ 阿川弘之長女)
 (やしろ・あさこ 矢代静一長女)
 (ないとう・けいこ 阪田寛夫長女)

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