書評

2018年5月号掲載

特別書評

素晴らしきものへの敬意

――川上未映子『ウイステリアと三人の女たち』

蓮實重彦

対象書籍名:『ウィステリアと三人の女たち』
対象著者:川上未映子
対象書籍ISBN:978-4-10-325625-0

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 ごくまれなことではあるが、ただ「素晴らしい」と芸もなく嘆息するしかない作品が同時代に存在している。「死ね、という言葉を人にむかって決して言ってはならないという教育のおかげで、マリーはこれまで一度も人にむかってそう言ったことはなかったし、また、内心でもそんなふうに思ったことはなかった」と書き始められる川上未映子の短編『マリーの愛の証明』がまさしくそれにあたる。彼女の新著『ウィステリアと三人の女たち』におさめられた四編の作品はそのいずれもが文字通り「素晴らしい」のだが、この短編をのぞけば、その「素晴らしさ」の質を何とか言葉にしうるはずだという批評家の意地めいたものが頭をもたげる。ところが問題の短編を前にすると、そんな「意地」などあとかたもなく影をひそめ、「敬意」と呼ぶほかはない心の動きがたちどころに批評家を武装解除しにかかる。そう、これまた「素晴らしい」『波』を仕上げたばかりのヴァージニア・ウルフが、「この書物を書きあげたわたくし自身にわたくしは敬意を払う」《Yet I respect myself for writing this book》と一九三〇年八月二十日の日記に書きつけている「敬意」。それに似た思いをいだくことこそ、この短編にふさわしいたった一つの身振りであるような気がする。
 では、作品に向けられるべき「敬意」とは何か。そこに書かれている言葉を、そっくりそのまま受け入れることだ。言葉を受け入れるというのは、音としては響かぬ声で書かれている言葉を律儀にたどりなおすこと、つまりは暗唱することである。そらんじること、あるいは引用することこそ、批評に先だち、書かれた言葉に向けられた深い敬意の表明にほかならない。そこに立ちこめているまがまがしい前兆に強く惹きつけられはしながらも、それが何の前兆であるのかをみだりに判別しようとなどせず――はたしてマリーは、「死ね」の一語を何ものかに向けて口にするのか否かといったはしたない詮索に陥ることなく――、ひたすらその言葉のつらなりに魅了されつくしていることが肝心なのだ。だから、どこの国のいつの時代ともさだかでないさる女子寮を舞台としたマリーの物語を仔細にたどることなく、「何時間も、何週間も、少しずつ時間をかけてふたりは念入りに別れ話をして別れた」という元ルームメイトのカレンの要求する「愛の証明」についてや、「不幸で、そして辛抱強い看護係」のアンナの身に起こったと想定されることがらなどにもあえて触れずにおき、その「素晴らしい」言葉のつらなりを二つほど、あたかも暗記するかのようにひたすら書き写してから、わからないことをただわからないこととして記しておくことにする。

 まず、第一の言葉のつらなりはこうしたものだ。「森や湖をいくら見つめてみても、迫ってくるものはもうどこにもなかった。それで、マリーはぜんぶがどうでもいいような気になった。彼女のふたつの肺のあいだには薄いつくりのコップがひとつあって、こういう気持ちになるたびに――まるで雨漏りを受けつづけるボウルのように、そこに何かが溜まってゆく。水のようにも見えるそれが本当はどんな色をしたどんな液体なのか詳しいことはわからない。どこからやってくるのかも、そしていったいいつになればそれがいっぱいになってしまうのかもわからない。でも、それが溢れてしまったときに、きっと自分は死んでしまうのだとマリーはかたく信じていた。どんなふうに死ぬのかはわからない。事故なのか、殺されるのか、自分で死ぬのかは、わからない。一滴、また一滴。それはマリーのコップを目指して落ちてくる。マリーはミア寮にいるほかの女の子たち同様、死にたいわけではなかった。しあわせになれるのなら、なってみたいとさえ思っていた。かといって、そこにコップが存在しているのもマリーのせいではなかった。もちろん、そこに何かが溜まってゆくことも」。読まれる通り、素晴らしい言葉のつらなりではないか。
 では、二つ目の言葉のつらなりはどうか。「アンナはいくつもの後ろ姿を見守りながら、草原のゆるやかな斜面を下っていった。校外学習と呼ばれるこのピクニックの帰り道、アンナはいつもさまざまな困難と問題をかかえたこの女の子たちの人生を、そして自分自身の人生を漠然と俯瞰しているような気持ちになることがあった。そしてうんと良く晴れた今日のような日には、アンナはそこに自分の娘の姿を見つけることもあった。ほかの少女たちとおなじくらいの背格好で、そしてアンナとおなじように癖のあるちりちりした髪をしてこちらを見ている。アンナにはそれが娘であるとひとめでわかる。彼女は笑っている。何か楽しいことがあるんだろう。けれどアンナにはそれが幻であることもわかっている。だから駆け寄っていって娘を抱きしめることができないことも彼女は理解している。けれども、とアンナは思う。それとはべつの仕方で――その足はしっかりと草原を踏みしめ、そしてその手には昼食の残りや大きなシートを詰め込んだバッグをつかんでいるにもかかわらず、でもそれとはべつの仕方で――いつか娘のことを抱きしめることができるんじゃないかとアンナはそんなふうに思っている。だってわたしには娘が見えるのだから。存在しないものを、どうして人が見つめることができるだろう」。
 これまた「素晴らしい」というほかはない言葉のつらなりである。そこに浮上している「自分の娘」という不気味な細部は中編『ウィステリアと三人の女たち』にも受けつがれているが、それについてはあえて触れずにおき、ここではこの短編に含まれているわからないことをただわからないこととして記しておく。それは、「ある日、マリーは思いがけず湖のほとりに出た」と書かれている冒頭部分でのことだ。「人の気配がしてふりむくと、カレンがいた」というのだが、「ぼんやりと湖を眺め、適当にあいづちを打ちながらカレンの話を聞き流していた」マリーに向かって、彼女が「マリーが作曲した歌」について語り始めると、「反射的にカレンを睨みつけ」、「その話はしないでって、まえにも言ったでしょ」といたって冷淡に振る舞い、「とてもいい歌だったのに」となごりおしげにいうカレンを徹底して無視する。この「マリーが作曲した歌」とは何か。彼女がそれについて語りたくないのはなぜか。まさか、たまたま「譜面を読んで鍵盤を弾くことができた」という『シャンデリア』の「わたし」が作曲したメロディーがなぜか売れに売れて、「六十五万円しかなかったわたしの貯金通帳の数字は定期的に増えつづけた」ということと関係があるわけではあるまい。少なくとも、フィクションのテクスト的な現実はそれについていっさい言及することがない。その理由もわからぬまま、人は後ろ髪を引かれるように、『マリーの愛の証明』から離れて行かざるをえないのだが、そのことはこの短編の「素晴らしさ」をいささかもそこなうものではなく、書きつがれる言葉への「敬意」もまた維持され続けるだろう。

 書かれた言葉に向けられた「敬意」をめぐってヴァージニア・ウルフに言及しておいたのは、理由のないことではない。実際、『ウィステリアと三人の女たち』のそこかしこに、ウルフの影が落ちかかっている。「記憶に、もしもかたちというものがあったとしたら、箱、っていうのはひとつ、あるかもしれないなとは思う」という一行で始まる『彼女と彼女の記憶について』。「もちろんそれがありふれた発想すぎるってことはわかってるけれど」と書きつがれ、「箱はいつも自分じゃないところに存在していて、ある日とつぜん知らない誰かから不意に手渡されるようにしてやってくる」と結論づけられるとき、それがウルフの『波』と無縁ではなかろうと誰もが思う。「だからわたしは、友人たちを一人一人順番に訪ね、彼らの閉じられた小箱を、まさぐる指で、こじ開けようとするのだ」という初老のバーナードの独白がそれに呼応しているように思えるからだ。
 とはいえ、それは想像にすぎず、ウルフの作品のより直接的な投影は、中編『ウィステリアと三人の女たち』の「5」にたっぷりと読みとることができる。「わたし」の家のはす向かいにある取り壊し作業が中断した広い家にかつてひとりの老女が住んでおり、大学時代にイギリス文学を専攻し、とりわけウルフを好んだという彼女――この作家がウーズ川に身を投げたことも知っている――は、さるイギリス人の女性とともに英語塾を開いており、その庭に咲き乱れる藤の花との連想で、彼女からウィステリアという名前で呼ばれることになる。深夜に廃屋に忍び入り、その時期のことを想像する「わたし」は、部屋の電気を消し、別れたばかりの外国人教師が戻って来てほしいと熱望する彼女を想い描くのだが、そのとき、いきなりヴァージニア・ウルフの引用が挿入される。「沈黙が落ちる、落ちつづける、わたしはすっかり溶けてしまってかたちを失い、他人との区別がほとんどつかなくなっていく」。これはバーナードの独白である。「この沈黙の中にいると、葉っぱ一枚も落ちず、一羽の鳥も飛び立たないような気がする」というのはスーザンの台詞だ。そして、ジニイが「奇跡が起こったみたい」と呟く。ここには引用されていないが、それは「いまここで人生が一時停止になったみたい」という言葉で閉じられている。
 あたかもその引用を受けつごうとするかのように廃屋の暗がりの中で藤の「花びらが渦になってウィステリアを巻き込む」その最期を想像する「わたし」は、悪寒とともにわれにかえり、雨にずぶ濡れになって自宅にたどりつき、すでに切り倒されていたはずの藤の花びらを全身にまとわりつかせた姿で夫の前に立つ。それは、「たった今、枝から離れてきたばかりなのだというように、生きたままわたしの体に張りついていた」のだという。「おまえ、誰なんだよ」。「知らない」。まさに「奇跡が起こった」かのように「わたし」はウィステリアと見わけがたくなっているのだが、それがヴァージニア・ウルフの刺激によるものかどうかはさだかではない。ただ、書かれた言葉に対するウルフ的な「敬意」だけはまぎれもなくそこに維持されている。

 (はすみ・しげひこ 批評家)

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