書評
2018年5月号掲載
知の果て、至上の時
――マーカス・デュ・ソートイ『知の果てへの旅』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『知の果てへの旅』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:マーカス・デュ・ソートイ著/冨永星訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590146-2
人間の知に果てはあるか。
これは言うなれば、人類にとって究極にして最後の問いである。だってほら、もし本当に人間の知に限界があるとしたら、この宇宙や世界について逆立ちしても絶対に分からず仕舞いの謎が残るわけでしょう。実際のところ、私たちにはついに知りえないことはあるのだろうか。
数学者マーカス・デュ・ソートイが待望の新著『知の果てへの旅』で取り組むのは、まさにこの難題だ。彼はこれまで『素数の音楽』、『シンメトリーの地図帳』、『数学の国のミステリー』(いずれも新潮文庫)といった数学ミステリーで私たちを魅了してきた。興味の尽きない問題設定、複眼的な探究の進め方、歴史や文化のエピソードを交えて読む人をその気にさせる文章と、三拍子そろった書き手で、この問題の案内人としては申し分ないどころか適任である。
では著者は、この私たち自身にかかわる根源的な謎にどう迫ろうというのか。
話はサイコロから始まる。あの小さな立方体のどこにそんな謎が? と思うかもしれない。サイコロは人類が発明したもののなかでもなかなかの傑作だ。なにしろ一から六のどれかの目が出るという具合に結果が限定されており(六面体の場合)、それと同時に振ってみるまでどの目が出るかは分からないという代物。偶然を生み出す装置である。このサイコロを振るとき、どの目が出るかをぴたりと当てることはできるだろうか。偶然ではなく、必然として予測できるのだろうか。
なるほどたくさん振ってみれば、だんだんとどの目も六回に一回の割合で出ることは分かる。同時に二個振った場合も、どの組み合わせがどのくらい出るかは計算できる。ただしそれはあくまでも確率であって、いままさに振るサイコロの目を完全に的中させるのとはまた違う話。
それなら攻め方を変えよう。ニュートンが発見した物体の運動の法則で考えたらどうか。これはなかなかよさそうだ。モノとしてどう転がるかが分かれば結果も分かりそう。ラプラスが戯画的に描いてみせたように、もしある瞬間の宇宙を構成するすべてのものの位置と、それらを統べる法則が分かれば、そこから生じるあらゆる変化を計算できる。つまり未来に起きることがすべて確実に分かるはずだ。
ところがそうは問屋が卸さない。一九世紀末にポアンカレがひょんなことから気づき、二〇世紀に大きく進展したカオスの壁が立ちはだかる。気候や動物の個体数の変化などを典型として、ある条件の下では、ほんのわずかな状態の違いから予測不能の結果が生じる現象が自然や社会のあちこちに見つかっている。サイコロも同様だ。たとえいまこの瞬間の宇宙の状態が完全に分かり、物質の運動を統べる法則が分かったとしても、カオス現象が生じる場合には未来の状態を言い当てることはできないのだ。
サイコロの運動は分からないとしても、サイコロを構成する物質ならどうか。それが分かればなんとかなるのではないか。実はこの方向も望みは薄い。微小な物質のふるまいを扱う量子論によれば、粒子の位置と動きを同時に正確に知ることはできない。
おお、なんということだろう。謎めいたところなどまるでなさそうなこのちっぽけな立方体に、知の限界が幾重にも含まれているなんて! そう、著者の言葉を借りれば、サイコロは「知りえないものの究極の象徴」なのである。
こんなふうにして、ひとたびデュ・ソートイの手にかかると、サイコロから、素粒子や宇宙、数学や古典物理学やカオス理論、さらには知の果てが飛び出してくるのだ。
――というのは一例で、他にも時間、意識、無限といった目下解明され尽くされていないこの世界にまつわる数々の謎が俎上にあげられている。著者はそれぞれのテーマについて、先人の知恵を使い、時に現代の専門家の助けも借りながら、知の果てへと向かう旅へと私たちを誘(いざな)う。
自然のしくみを探究する科学と、それを抽象的にとらえる数学と、探究の土台となる哲学。この三つの発想が交わるところで、想像と思考を存分に遊ばせながら知の限界をたしかめてみること。なんと贅沢でスリリングな経験だろう。手にするときには分厚く感じられた五百ページを超えるヴォリュームも、ページを繰るにつれて読み終えるのが惜しくなること請け合いである。
果たして知には最果てがあるのか。そこはどこなのか。いざ、知の果て、至上の時へ。
(やまもと・たかみつ 文筆家・ゲーム作家)