書評・エッセイ

2018年5月号掲載

笑いの涅槃を描き出す新しい宗教文学

――町田康『湖畔の愛』

若松英輔

対象書籍名:『湖畔の愛』
対象著者:町田康
対象書籍ISBN:978-4-10-131934-6

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 世のほとんどの小説は、文字でのみ書かれているが、この小説の作者は、文字だけでなく、音律、響き、沈黙というさまざまな「言語」によって物語を描き出す。愉悦は、文字によって胸に、愛(いつく)しみは沈黙によって心へと運ばれる。体裁は小説なのだが、読後の実感は、これまでにない新しい詩歌にふれているようでもあった。
 本書を手にしながら、念頭を離れなかった二人の作家がいる。石牟礼道子と夏目漱石だ。舞台となる九界湖ホテルの由来が「苦界」あるいは『苦海浄土』の「苦海」さらには九つの次元が交錯する場所であることは、ページをめくるとゆっくりと感じられてくる。『こころ』が刊行されると漱石は、自ら次のような広告文を書いた。「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」。この言葉は、そのまま本作の広告文になる。
「心」は、本作を読み解く重要な鍵となる言葉だ。登場人物は、あるときから「真心のみで意味のない言葉」を話し始める。この真心語ともいうべきものを解明したのは、このホテルを訪れたある会社の経営者だった。この人物は、真心語を探究することになったきっかけをこう語る。
「責任ある立場の人が会見などで、心よりお詫び申し上げます、と言ったときそこに心がまったくもないことだ。そこで私は言葉の意味というものをいったんすべて排除して、気持ちだけで喋ったらどうなるだろうか、と思った」。たとえば「ずいじゃーの?」が「大丈夫ですか?」という風に真心語は「一般語」しか知らない人には理解できない。しかし、このホテルで働くスカ爺は、最初からそれをある程度――本人は完璧だと信じているのだが――理解できた。スカ爺は愚者だが、さもしいところがない。それが真心語を理解する条件らしい。
 だが、真心語を理解する人は、「一般語」に潜む毒素も強烈に感じてしまう。スカ爺は、ある有名女性誌のライターをつとめる女性の心ない言葉を聞き流すことができず、嘔吐してしまう。この女性は成功者だが、その高慢な姿は、スカ爺の眼にはほとんど醜悪にしか映らない。
 通常人は、言葉を頭から発し、頭で受ける。しかし、この物語ではそうした常識が、さまざまな出来事を機に崩壊していく。人々は「真心」から言葉を発し、「真心」で受けるようになり、ついには真心と対話するための「心内語」なるものすら用いるようになる。
 真心で生きている人は、知性とは異なる世界観をもっている。あるときスカ爺は「冥顕のすきまを突破していけばよい」と感じる。彼にとって「冥顕」すなわち死者の世界と生者の世界は地続きだった。また、ある人は伝説の鳳を目撃し、また、ある人は龍神に招かれる。その場面を描くとき作者は、「聴こえたんです、あの声が。荘厳ではありません」と「荘厳」という。
「荘厳」は彼方の世界からの呼びかけを意味する石牟礼道子の文学を象徴する一語だが、この言葉をそっと差し込みながら、描き出すのはそれとは異なる世界だといってみる。しかし、「雨女」と称され、見る者の目をくぎ付けにする女性の姿を描き出す筆致は、作者が『苦海浄土』の作者の後継者であることを如実に示している。
「......圧岡に借りたホテルの制服を着た恵子はさほどに美しかった。そしてそれは、人の苦しみと悲しみを自分の苦しみと悲しみとしている人の美しさだった」。悲しみと美は不可分に存在している。悲しみを知らない美は、真の美ではない、それが石牟礼道子の確信だった。
 この作品を論じ、笑いを素通りするわけにはいかない。この作品は「笑いニルバーナ」、笑いの涅槃を描き出そうとした、まったく新しい宗教文学でもあるからだ。
「おもしろいとか、おもしろくないとか、そういう次元の話ではなかった。脳が痺れたようになり、笑い声はもはや悲鳴であった。意識はもはやなかった。全員が涙と涎を垂れ流し、腹を押さえてのたうち回っていた。自分も他人もなく、生も死もなく、ただ笑いだけがそこにあった」。
 この一節は、そのまま本作の光景を表現している。久しく笑いを忘れているという人、悲しみは、愛しみ、美しみと書いても「かなしみ」と読むという心情の秘義を知りたい人、さらには信じるとは何かを感じ直してみたい人も、この物語の世界を旅するとよいと思う。探している何かに出会うはずだ。

 (わかまつ・えいすけ 批評家)

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