書評

2018年5月号掲載

物語が語学力を磨く

――黒田龍之助『物語を忘れた外国語』

羽田詩津子

対象書籍名:『物語を忘れた外国語』
対象著者:黒田龍之助
対象書籍ISBN:978-4-10-102661-9

 本書の著者である黒田龍之助さんは長年にわたりロシア語教師をされ、大学で教鞭をとり、テレビやラジオの講座でも教えていた。ロシア語ばかりか英語、フランス語、イタリア語、セルビア語、クロアチア語なども使えるというから、まさに語学の達人である。そんな黒田さんがチェコ語で講演をすることになり、チェコ語のレベルアップをしようと考える。
 まず、チェコ語辞典などから拾いだした単語を黙々とパソコンに打ちこんでいく作業をした。「語彙は外国語の基礎」で「料理でいえば材料」なので、「食材不足ではロクなものができない」からだ。もうひとつはチェコ語本の読書。これは大好きな星新一作品集のチェコ語版を選んだという。おかげで講演は大成功をおさめることができた。
 この例からわかるように、語学力をつけるためには検定試験問題集を何度も解くよりも、物語を原書で読もうと、黒田さんは強く勧めている。大学の英語教師になったときはフィールディングの『トム・ジョーンズ』を原書で読破したそうだ。ここまで読んで、わたしは思わず膝を打った。実はわたしも中学、高校時代、英語の力をつけようとして、子ども向けの本の原書を読んでいたのだ。最初は知らない単語ばかりで何を言っているのかさっぱりわからないところもあったが、すでに日本語で読んでいるので筋はわかる。そんなことをしている暇があったら、読解問題を解いた方が受験には有利では? と思う方もいるかもしれないが、結局、英語の底力はこうした原書の読書で養えたと信じている。黒田さんも「外国語で読書をする場合、心がけるべきはすべてを分かろうとしないことである」と言っている。そう、わからないところは飛ばしてどんどん読み進めばいいのだ。
 本だけではなく、映像の力を借りてもいい。黒田さんはアガサ・クリスティーのBBC放送のドラマを見てから、英語で小説を読んだそうだ。映画も字幕と音声をさまざまな組み合わせにして繰り返し見ることで、「最高の外国語教師」となりうる。
 また、本書ではさまざまな言語が登場する小説がたくさん紹介されるが、どれも読んでみたいものばかりだ。とりわけ、湊かなえの『絶唱』に登場するというトンガ語には興味をひかれた。日本語学習者には同じ作者のベストセラー『告白』を勧めているが、この英訳書なら日本人英語学習者によさそうだ。スウェーデン語、エストニア語、リトアニア語、オランダ語、フランス語、ロシア語、アブハズ語など聞いたこともない言語を含め、架空の言葉モルバニア語まで登場する数々の本の読書案内は、読んでいて興趣が尽きない。
 翻訳を生業とするわたしにとって、とりわけ興味深かったのは、翻訳が「頭にスッと入っていきすぎるとつまらない」という意見だ。最近の翻訳は、とにかく読みやすくわかりやすく、が優先されているように思える。しかし、こういう意見もあるということを頭のどこかにとどめておきたいと思う。外国の土地ならではの歴史や文化が翻訳文にも残っていて、そのため読者にとって多少理解しづらくなっているとしても、そこがいいのだ、たとえるなら「ワインの渋み」のようなものだ、と黒田さんは力説する。機械翻訳では絶対に出せない「渋み」を評価する黒田さんの言葉に、翻訳家として力をもらえた。
 言葉に注目した小説や映画の考察もおもしろいが、この本の魅力はなんといっても、ユーモアたっぷり、切れ味鋭い文体だと思う。最後の章で、シェークスピアやチェーホフの戯曲はピンとこなかったが、ニール・サイモンにはハマったと書かれていて納得した。「喜劇」で「作品のテンポ」がよく、「セリフのカッコよさ」があるニール・サイモンの魅力は、まさに黒田さんの文章の魅力そのものなのだ。読んでいて実に爽快だった。おまけに読書中、にやにや笑いでずっと口角が上がっていたので、アンチエイジングにもなったかもしれない。黒田さんの語学についての考えに心から共感したので、さっそく明日からニール・サイモンの映像作品で翻訳に役立つせりふを楽しく勉強してみるつもりだ。

 (はた・しずこ 翻訳家)

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