書評
2018年5月号掲載
虎になった奇人、世界に飛び出す
――小松貴『昆虫学者はやめられない 裏山の奇人、徘徊の記』
対象書籍名:『昆虫学者はやめられない 裏山の奇人、徘徊の記』
対象著者:小松貴
対象書籍ISBN:978-4-10-104121-6
昆虫に関わる人の世界は、とかく変人に事欠きません。その様子をひと言で表すならば「欲望の塊」。珍しい虫を見たい採りたい、そのためなら寝食を投げ打つという、一般には理解の埒外にある欲望の坩堝。世間の冷たい視線という選別を潜り抜けてきた猛者たちのワンダーランドなのです。
石を投げれば変わり者に当たる昆虫業界にあってなお「奇人」の称号を独り占めにしているのが、好蟻性昆虫研究者の小松貴さんです。
はじめてお会いしたのは数年前、昆虫の魅力を紹介するイベントにご登壇いただいたときのこと。黒ずくめの服でゆらりと会場にたたずみ、不安になるほど口数の少ない方というのが当時の第一印象でした。しかし講演の時間になるや、魔法使いのマントと帽子を身にまとって登場し、聴衆の度肝を抜きます。星のついたスティックでスライドを指し示し、生きものたちの不思議な世界について教えてくれる語り口は、驚くほど巧みなものでした。
幼少の頃から石をひっくり返してはうごめく虫を観察し、アリの巣にアリならぬ虫が住むことに自力で気づいていたという小松さん。それはアリヅカコオロギという虫でした。少年はやがて、昆虫研究者の道へと進みます。
助言を得るために訪ねた専門家は、小松さんの虫を見つける能力の高さと、それに反比例するかのように人の世に対する関心の薄いさまを見て「奇人」の称号を与え、これがやがて、研究者界隈での小松さんの代名詞になっていきます。小松さんが文章と写真を発信しているブログのタイトル「Ⅲ月紀・四六」は中島敦『山月記』のもじりと思われますが、人と相容れず野に姿を隠し、やがて虎になってしまう主人公のイメージは、この孤高の研究者とどこか重なります。
本書では、一見とてつもなく地味なのに非常にドラマチック、そしてスリルにも溢れている昆虫学者の生活を、生きものたちの豊富なエピソードと共に垣間見ることができます。
タイトルに登場する「裏山」は、元は小松さんが学生時代に親しんだ信州の山に起因すると思われますが、本書では"家のすぐ側にある、生き物達の息づく場所"のイメージとされています。裏山に身を潜め、生きものたちの世界に同化して得られた文章を読んでいると、小松さん自身が人里よりは裏山に属する生きものであるかのように思えてきます。
動物の言葉を解する獣医・ドリトル先生のようにアマガエルと鳴き交わし、公園のカラスと心の交流を試みる日々。いささか長く「裏山」に身を置いた結果、生きもの探索能力は研ぎ澄まされ、広大な山林で冬芽に酷似したシャクトリムシをたやすく見つけ出すほど。小松さんは微小な昆虫の生活を鮮やかに捉える写真家としても著名ですが、それは呼吸すら虫と合わせるかのようなシンクロ能力によるものでしょう。
人の世になじまないことを折に触れて公言し、半ば動物になってしまったかのような感覚の鋭さを見せる小松さんですが、一方で誰も知らない虫の生態の秘密を、人に先んじて解き明かしたいという強い欲求をのぞかせます。人しかこのような望みは持ちえないという点で、とても人間的であると言えるでしょう。
採集記録や学術論文を漁ってはまだ見ぬ虫の手がかりを探り、必要とあらば冷たい川に身を浸したり、真っ暗な洞窟に乗りこんで体長2〜3㎜の無名の虫を探します。「フィールドにおいて自分の予想がまんまと当たった時の喜びと、まんまと外れた時の驚きというのは、何物にも代えがたいものである」。小松さんのこの言葉からは、生きものの世界において誰よりも優れた観察者でありたいというギラギラした欲望と共に、一生かかっても辿り着けない真理への畏敬の念を感じます。
『山月記』の李徴は我が身を呪って深山に姿を隠しますが、小松さんは研究を通じて「裏山」から世界に出てゆきます。東南アジアやアフリカのフィールドでは病や危険生物に脅かされ、標本調査に訪れたパリでも路上犯罪に怯える日々。外国の珍奇な昆虫に魅せられつつ、裏山の虫たちをふと恋しく思う――どこか不器用に、こわごわと世界に向き合いながら生きものの魅力に溺れる姿に、なんだか勇気が湧いてきます。
「虎」の目から語られる地味な生きものたちの営みは、とても精密で愛らしいものです。李徴も裏山の生きものたちの魅力に気づいていれば、虎のままで世界を切り拓いていけたかも。そんな想像をしてしまう一冊です。
(めれやま・めれこ エッセイスト)