書評

2018年6月号掲載

冷笑と輝き

――イアン・マキューアン『憂鬱な10か月』(新潮クレスト・ブックス)

小山田浩子

対象書籍名:『憂鬱な10か月』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:イアン・マキューアン著/村松潔訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590147-9

「わかっている。こういう皮肉な言い方はまだ生まれてもいない人間には不似合いだ。」本作の語り手は臨月の胎児、性別は男性、言うまでもなく名前はまだない。彼を宿す母の名はトゥルーディ、金色の髪を三つ編みにするのが似合う二十八歳の美しい女性、その夫=胎児の父であるジョンは詩人、乾癬で手の皮膚が荒れている。ジョンはトゥルーディが一人になりたいと望んだため家を離れている、が、その間に夫婦の家にはトゥルーディの愛人クロード(俗っぽい不動産開発業者)が入り浸っている。不埒なことにクロードはジョンの弟で、さらに邪悪なことに貧乏詩人の夫に愛想をつかしているトゥルーディと兄に劣等感を抱くクロードの二人はジョンを殺し、家(古くて汚いがいい場所に建っている)を売り払おうとしているのだ。「『決めるんだ』/『怖いの』/『しかし、話し合っただろう。半年後には、わたしの家にいて、銀行には七百万(引用者注:単位はポンドだから十億円以上)。赤ん坊はどこかへ養子にやって。しかし。何にするかだ。ううむ。何に?』/(中略)彼女の血がわたしのなかで、遠い砲火みたいにズシンズシンと脈打ち、彼女が必死に選択しようとしているのがわかった。(中略)/『毒殺ね』」
 胎児は母の心拍や血液の流れを感じ、羊水越しに外界の音声を聞いている。母や叔父や父の声、母の好むポッドキャスト。「全十五回の『ワインを知ろう』、十七世紀の劇作家たちの伝記、さまざまな世界的名作。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は、わたしをわくわくさせたけれど、彼女をぐっすりと眠りこませた。」音声知識によって社会情勢や歴史科学心理学等々を学んだ「わたし」は語彙が豊かで知的である。一方で彼には絶対にわからないものがある。たとえば「"青"という言葉を聞くと、わたしはまだそれを見たことがないのだが、たぶん"緑"――わたしはこれも見たことがない――にかなり近い心的出来事なのだろうと推測する。」母がどんな相貌をしているのかも、それを賛美する父や叔父の(詩的あるいは邪な)言動から推測するしかない。子宮で得られる身体的感覚を除けば、彼にあるのは言葉だけなのだ。子宮の外、家の外、つまり世界には、言葉でないものが溢れている。彼は自分がそれらを知らないことをも知っている。そして知ることを切望している。何もかも知りつつ何も知らない語り手の、辛辣で皮肉に満ちたコミカルな語りの卓抜さが本作を牽引していく。
 エピグラフには『ハムレット』が引かれ、原題「Nutshell」(胡桃の殻=子宮)も登場人物名もそこから由来している。王子ハムレットは叔父に父を殺され母を娶られた、つまり「わたし」こと胎児がハムレットであり、しかしハムレットは母と叔父の前で父王毒殺の顛末を演じさせるが、「わたし」は逆に外界で展開する演劇を一幕一幕見せられているただ一人の観客のようなものだ。残念ながら芝居の出来はあまりよくない。父の好物スムージーに毒を混ぜて飲ませ自殺に見せかける計画、感情的な母と楽観的かつ狡猾な叔父によるお粗末な、十七世紀ならいざ知らず防犯カメラやDNA鑑定のある時代に成功するとは思えない筋書き、それは父の思わぬ行動から加速度がつきどたばた進行していってしまう。「わたし」は母と叔父の会話から計画を推理し顛末を想像し行く末を案じなんとか父を、母を、もちろん自分を助けるべく思弁とできる限りの行動(子宮を蹴り、臍の緒を操り、羊膜を掻き......)でもって奮闘する。誰より知的な胎児の語りに大人たちの愚かさと醜悪さが露わになる。といって「わたし」が純粋無垢な存在であるわけもなく、まるで真面目な顔で筆者にからかわれているような気分にもなる。滑稽だが悲惨なこの劇を前に、読者はうっすらと嫌悪を含んだような笑いを禁じ得ない......と思いつつ読んでいる最終盤、筆者は読者に思わぬ美しい情景を用意している。「わたしはどんなに驚き、想像力を刺激されたことか。青。わたしはむかしから知っていた。少なくとも、言葉としては。」苦笑いが思わず感動に変わりそうになりそれすらも筆者の企みでありまんまと乗せられて悔しいような気もして、それはそうと本作が読む手を止めさせないすぐれた小説であるのは間違いなく、読者はふと見回した世界の無秩序なしかし厳然とそこにある輝きを知ることになるだろう。

 (おやまだ・ひろこ 作家)

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