書評

2018年7月号掲載

一番恐ろしいのは編集者なのか

――長谷川郁夫『編集者 漱石』

町田康

対象書籍名:『編集者 漱石』
対象著者:長谷川郁夫
対象書籍ISBN:978-4-10-336392-7

 作家と編集者の関係といって一般の方が先ず思い浮かべるのは締め切りについてであろう。作家の自宅に編集者が行き、「先生、今日中にいただかないと死人が出ます」みたいなことを言い、作家が言を左右にして、或いは嘘を言い、時には正論中の正論を述べてこれから逃れ、なんとかやり過ごそうとする、みたいな攻防である。
 しかしそうしたことはいまはもうあまりないように思う。というか、それ自体が多分にフィクショナルというか、おもしろくて受けるから強調されるだけで、いまも昔も実際は少し様子が違うのではないか、と思う。
 というのはどういうことかというと、右の例だと作家は、書こうと思えば書けるのだけれどもその気にならないので書かない、という風に読むこともできるが実はそうではなく、かなり前からその気になっていて書こうとしているのだけれども書けないのである。
 だからいくらお金を返せと言われても無い袖は振れないのと同じように、どのように熱心に懇願したところで書けないものは書けない。つまり作家は書けるものという前提が間違っているのである。
 したがって作家と編集者の関係でもっとも緊張が高まるのは、そもそも書けない作家に編集者が書かせる、というところである。
 つまりこの場合における編集者とは書けない(才能の無い)作家に売り物になる原稿を書かせる人ということになる。ということは。そもそも書けなくてよいのなら、いい編集者さえつけばどんなアホでも作家になれるのか、という話になるが、まあそうだと言えばそうというかこの場合、アホとかかしことかいうのはあまり関係がなくて、その編集者が書かせようとして発した気合いのようなものを受け取るための受容体のようなものを有しているかいないか、ということに実はなる。
 その気合いのようなものというのは意識的な言葉でないものも多く、また右の例のように家に来て、「今日中に書け」といったものでもなくて、何気ないちょっとした一言だったり、二十年前に「これ読んでみたらどうだ」と手渡された雑誌の記事のコピーだったりすることもあって、己ひとりの力で書いたと思いつつ、ふとあるとき、「あれ? これとこれってもしかしたら繋がって関係あるんじゃないの? もしかしたらあのときのあの一言に導かれて書いたんじゃね?」と事後的に気が付くようなものであったりする。
 なんてことを思うのは、長谷川郁夫著『編集者 漱石』を読んだからで、編集者を長くした筆者は誰もが作家としか思っていない夏目漱石の、明治から大正にかけて、中勘助や長塚節や芥川龍之介や谷崎潤一郎や志賀直哉といった人たちに手紙を書いて原稿を依頼して書かせた、編集者としての側面に着目してその作品を中心としてではなく、その人の部分を主に描いている。
 自分のような不勉強な読者にとってはそれだけで興味深くて、というのは夏目漱石について書かれたものをこれまで読まないでもないが、やはり夏目漱石ともなると最初から、えげつなく高いところにいる人、みたいな感じがあって、人を書くにしても、そこに敬意を含んだ作意というか、作品と経過した時間とその後の経緯から逆流した漱石という物語が入り込んで実体的ではなかったが本書では、そこのところ、というのは作者が編集者としての経験から実感する、作家が書く/作家に書かせるという点での、実際的な作業というのはすなわち銭の計算、装丁や締め切りといったこと、を通じて、文学的でない夏目漱石が生々と現れて息もつかずに読んだ。といったところ、例えば連載を約束して「途中まで書いたんだけどやっぱ納得いかないんで」と言って直前に断ってきた、見上げた根性の志賀直哉に対しての漱石の、半ばは作者として半ばは編集者としての対応などもいい感じで紹介したいけれども、それは読んだ方が絶対におもしろい。
 そして本書のキモというか中核の部分は夏目漱石があのような文業を遺したその根本・根底のところに、ありえないほど遠大な志を持っていた正岡子規の存在があって、それは右に申し上げた、編集者が作家に注入する気合いのごときものが、子規によって漱石に注入せられてあり、その漱石によって気合いを注入せられた弟子や「新思潮」の人たちが書いていくという、きわめて文学的なものである。もっというと編集者的ではなく作者的。
 出てくるのは文学史上の人ばかり。でも森田草平はアホ扱い。内田百閒はガキ扱い。やはり一番恐ろしいのは編集者なのか。

 (まちだ・こう 作家)

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