書評

2018年7月号掲載

「幸せになった」とはとても思えないにもかかわらず

――小島慶子『幸せな結婚』

吉田大助

対象書籍名:『幸せな結婚』
対象著者:小島慶子
対象書籍ISBN:978-4-10-335112-2

 女子アナ業界を舞台に据えた小説デビュー作『わたしの神様』、海外の日本人コミュニティで巻き起こる群像劇『ホライズン』と、小島慶子の作品は刊行直後に手に取って読むようにしてきた。何を書いているのか、気になるからだ。テレビやラジオでコメンテーターとして社会問題に舌鋒鋭く斬り込み、コラムやエッセイの連載も多数抱えているにもかかわらず、彼女がわざわざ小説というアウトプットの手段を選んで表現しようとしているものは何なのか。他のメディアでは表現不可能なものが、そこには書き込まれているのではないか。
 書き込まれている、とまずは断言しておきたい。では一年二ヶ月ぶりの小説第三作『幸せな結婚』において、それは何か。
 地名は伏せられた東京のおしゃれタウンに暮らす、二組の夫婦の物語だ。第一章「出会い」の段階で、これまで女性の登場人物の書き分けを得意としてきた作家は、新境地へと足を踏み込んでみせる。〈公園で散歩する生活なんて、定年退職後だと思っていた〉。心の中でそうつぶやくのは、男性の浩介だ。彼は生後一ヶ月の一人娘・花をベビーキャリアに乗せて、「公園デビュー」をしている。〈子持ち女は、みんな同じ顔に見える〉。そのつぶやきからは、今の自分の状況に対して少なくない不満を感じていることが感じ取れる。俺は違うぞ、と。ママ達との束の間の交流の後、小説は彼の内面へと潜り込み、現在に到るプロフィールを詳述し始める。名の通った会社に勤めていたが退社したこと、花見合コンで妻の美紅と知り合ったこと、スタイリストとして成功している彼女はバリバリ働いていること......。たった数ページの中に、異性を傷つけることに無自覚な男のがさつな生態が、性欲込みでおそろしくリアルに書き込まれている。
 視点が変わり、浩介が公園で出会った主婦・恵の語りへとスライドする。ライターとして強い野心を持って働いてきた彼女は、息子の蓮音の出産・育児を機に仕事がゼロになった。その現実に苛立ち、仕事との両立を実現している同性を呪う。〈うまいことやって仕事も子どもも手に入れた、欲張りな女たち。このご時世に認可保育園に入れたなんて、いったいどんな手を使ったのだろう〉。ここで初お目見えするのは、「笑い」の感触だ。作家は腐り切った彼女の内面をえぐり出しながら、彼女が置かれた状況全体を俯瞰し、「笑い」を差し挟んでいく。過去作には見られなかったこの感触が、登場人物たちのしんどさをちょっと中和してくれる。逆に言うと、「笑い」を差し挟まずには成立しないほど、しんどい話なのだ。
 浩介、恵に続き、浩介の配偶者である美紅の語り、恵の配偶者である英多の語りが現れ、シャッフルされながら物語は進んでいく。外から見ると「幸せな結婚」と評されるかもしれない二組の夫婦はなぜ、こんなにも断絶しこれほどまで追いつめられているのか? 「夫」「父」「男」あるいは「妻」「母」「女」のイメージの呪縛に囚われているからだ。ここで、冒頭の問いかけに戻る。小島慶子が小説というジャンルで表現しようと試みていること。それは、自分とは異なる価値観を持った「他者の人生」の、徹底的な記述だ。テレビやラジオ、コラムやエッセイで求められるのは「自分の人生」の表現だ。そこでいきなり「他者の人生」に深く潜られてしまったら、受け取る側も困る。だが、小説ならば、できる。
 そのようにして織り上げられていった物語はやがて、四者四様の幸福論へと着地する。現象だけ取り出すと「幸せになった」とはとても思えないにもかかわらず、読み心地は「幸せ」でしかあり得なかったという事実は、確かな筆力で「他者の人生」にシンクロさせられていた証だ。小島慶子の小説には、「小説」の真髄が宿っている。次の本も必ず読むだろう。

 (よしだ・だいすけ ライター)

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