書評

2018年8月号掲載

読むといいことが起こる

――保坂和志『ハレルヤ』

山下澄人

対象書籍名:『ハレルヤ』
対象著者:保坂和志
対象書籍ISBN:978-4-10-144925-8

 何事も起きていない日など厳密には誰にもないのだけど、それでも大きく気にかかるようなものがなく、とりたてて言うほどのものはなく、仕事が面倒くさいとか、あいつが嫌だ、あいつが好きだ、退屈だ、死にたい等々はあれど、今日と同じ明日が来るだろうか、というような、もちろんどんなに似た日であろうと今日と同じ明日などないのだけどそれでも、そんな風な思い方をしない時、には気がつかない、あれこれ、というのがある。それは字にも書けないような事だ。どんな身近な人にすら、言葉、では伝えられない事だ。しかしそれは、この本を読んで「ああそうだ忘れていた、わたしの幸せはそんな時のその感じだ」と認めてしまったら、ばちが当たって、ほんとうかならそうしてやろう、と上の何かに思われたら困る、というような事、とも言える。
 母が死ぬ前、ぼくはまだ若かった。若かったから、六十前でわたしは死にかけている、という事の、当人の切実なんかわかるはずもなく、ただ迂闊にもまだ死ぬとは思ってもいなかったものが死ぬ、という掟のような当たり前にうろたえるだけで、その状況が嫌で、陰気な顔をしていた。なのにぼくは、病棟の、日のさす談話室の、静かな時間の光景を思い出す。車椅子に乗せた母と見た桜の木を思い出す。そして、またあの光景を味わいたいな、と思う。そう思ってしかしすぐに、だめだだめだ、と思う。あの光景は、大事なものがなくなるとわかった時のような、なくなったと知った時のような、崖から突き落とされる、あの気分を経た後にだけ来るものだと知っているからだ。
 ぼくは同じ気分を震災の時にも感じた。父が死ぬ時にも感じた。そして猫が死ぬ時、病気になり死にかけている時にも、感じた。しかしこれはこうして言葉にするのはあまり良くない。小さな誤解でも違うものになる。誤解されようとなんだろうと関係ない、というような態度も、その態度が、それ、を違ったものにしてしまう。
 だからこの本を読めばいい。

 五月二十日はとてもいい天気だった、九時に府中の農工大に着くとそこは北海道みたいに広々した敷地で動物医療センターは外にベンチもテーブルもある庭があり地面にはおもにクローバーが生えていた。
 待ってるあいだ私は花ちゃんと外のそこにいることにした、キャリーの戸を待つあいだいつものように私は開けた、戸を開けて、中で縮こまっている花ちゃんを撫(な)でるつもりだったのが花ちゃんは戸が開くとキャリーから出た。そしてキャリーを置いていたベンチから下に跳び降りた、花ちゃんはベンチのすぐ下のコンクリートにもあまり長いこといずにクローバーの地面を歩きはじめた、このとき花ちゃんは物の影や形ぐらいは見えていた、だから簡単にベンチから跳び降りた、チワワだったかトイプードルだったか、小さい犬を抱いた老夫婦が診察にきた、建物に入る前に奥さんが地面に屈んだ、
「四つ葉のクローバー見つけた。」
「ほお、きっといいことがあるね。」
 私はそれを聞くだけでもう泣いていた、私たちもこういう老夫婦になるんだろうか。五月の晴れた郊外のキャンパスは鳥がしきりに鳴き交わしていた、ツバメが低く飛び回っている、花ちゃんはその下で喜んで歩いている。
「ハレルヤ」

 書かれることなのか、書かれ方なのか、しかしそれは同じことで、それが書かれること、それ、とは「世界」と言われたりするもののことだ。「世界」が書かれようとすること、書くというのはそこにあること、それらがやわらかいやり方で、雑とも見えるやり方で、あちこちの淡い色が重なった瞬間、重ねられた瞬間、小説になる。捕まえた訳ではない。
 四つ葉のクローバーを見つけた老夫婦には四つ葉のクローバーを見つけたとき、見つけなくても、奥さんが屈んだとき、もう「いいこと」が起きていた。

 (やました・すみと 劇作家/小説家/俳優)

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