書評
2018年8月号掲載
うつろう文字
――円城塔『文字渦』
対象書籍名:『文字渦』
対象著者:円城塔
対象書籍ISBN:978-4-10-125772-3
書の講座やワークショップで書の歴史について説明することがある。
そうしたときに話すことは、現在わたしたちが目にすることができるもっとも古い漢字の姿は三千三百年前の殷王朝の時代に存在した甲骨文字であり、そこから書体は変遷しながら今に至るということ。そしてひとつの文字体系がこれほどまでに長きにわたり用いられているのは漢字だけであるということだ。
子どもの頃にはじめて触れ、今なお読み返す歴史書『和漢書道史』(藤原鶴来、二玄社)がある。その中では、漢字の起源を「漢字は今からおよそ五千年前、中国黄河の流域に発展していた漢民族に源を発し、世の推移とともに漸次に変遷発達して、種々の書体を生じている。(中略)書体の変遷移行は、すべて速書の必要から生まれたものであり、長い間に漸的に変移したものである。決して篆書・隷書・楷書というような階段的変化を遂げたものではなく、それぞれの書体の間には過渡的な書体があったものと思われる。そして著しく変化した体に、後世になり、篆・隷・楷・行・草というような名称がつけられたと考えるのが至当であろう」としている。また「新書体の発生は速書の要から生まれるもので、これは寧ろ自然の変異である」とも語られる。
歴史上の人や事象がある。一方で、そこからこぼれおちる人や事象も当然ある。けれど実際に歴史を支えながらこぼれおちた側の人やことは丁寧に語られることはなく、たとえばそれらは「自然の変異」ということばに収斂される。
『文字渦』では、そうしたこれまで語られることのなかった文字にまつわる「自然の変異」が様々な時代やひとびと、設定を通じて次々に描き出されていく。
『文字渦』を読みはじめるとすぐに、ある文字の字義が現れた。あれ、こんな意味があったかと思い、本棚にある世界年表と書の歴史書と漢字字典に手を伸ばした。
その字義は、すぐに字典の中にも見つかった。意味を目で追いながら、なぜか安堵している自分に気づく。そして小説なんだから、ことばの真偽をいちいち気にしなくてもいいじゃないかと思い直す。けれど、またすこし読み進めると、歴史では定説として語られるエピソードが登場し、つい年表で詳しく確かめたくなる。そして歴史書を辿りながら、ほんのすこしだけ史実と異なる点を見つける。
すぐに、きっとわたしがわかっていないだけなのだと思う。それから、いや、やっぱりこれは著者の想像なのだろうと思い直す。
読み進めては、立ち止まり、史実を調べる。そしてまた読み進めては、立ち止まる。そんなことを繰り返しているうちに、そもそも自分が依っている年表や歴史書や字典が、どうして真実だと確信を持てているのだろうかという思いが湧いてくる。そして、それは今まで感じたことのない不安となり積み重なっていく。
この本の装幀のための書を依頼されたとき、著者からは「阿」の文字の書体の架空の変遷を示された。
歴史的にこう変遷したとされている書体の流れを辿る。そして、そこから逸脱した流れの文字のかたちを書きはじめる。たちまち奇妙な気分が押し寄せてきた。あたかもそんな書体が存在していたかのように筆遣いやかたちを調整しながら、"こんな文字がありえたのかも"と想像をふくらませながら書く。そうして書いた文字を字典に倣った書体の続きに並べると、それは流れの中にすっかり紛れたように見えた。
歴史として「伝わらない」ことが小説として想像され、描かれる。それを読むわたしの中にも、次第に自分の依ってきた歴史を見つめ直そうとする新たな視野が開かれていくのを覚える。小説をすべて読み終えたとき、いくつもの"ありえたかもしれない"渦を経て、これまで自分が依ってきた歴史の輪郭はかすんでいた。けれど、さっきまでの不安が、徐々にこれまで味わったことのない新鮮な思いへと変わっていくのを感じた。
(かせつ 書家)