書評
2018年8月号掲載
特別企画 映画評
「毛虫のボロ」とボロギクと
宮崎駿、「風立ちぬ」以来五年ぶりの新作をめぐって
対象著者:宮崎駿
愛知県一宮市の西、田畑がどんどん消えてゆく濃尾平野の一角に生まれたのが因果で、八十四歳進行中の今も暮らしている。トシごとに遠出は億劫で、だから4月9日に、三鷹市の三鷹の森ジブリ美術館で上映中の、宮崎駿監督の新作「毛虫のボロ」に出向いたのも、一石二鳥で帰りに京橋での「国立映画アーカイブ」開館式典へ回る心づもり。そんなにセカセカしなくても、と我乍ら思うのだが。
「毛虫のボロ」をイメージボードで初めて見たのは、1995年の3月にスタジオジブリを訪れたとき。まだ「もののけ姫」(97)に着手する前である。廊下に掲げられていたので、鈴木敏夫プロデューサーに、撮ってもいいですか、と尋ねたら、あっさり「どうぞ」。現在のキャラクターとかなり違い、長編にしようかと迷っていたらしい。決シテ蛾ナンゾニハナラナイゾなんて独白も記入されていたり。
若い頃は、見たらすべて覚えているもの、と思っていた。今は見た端から忘れてゆく。私の回は外人客が目立ち、幼い毛虫から見た巨大な虫たちの姿や、タモリの増幅された擬音声が怖いのか、白人の父に抱かれた子供がおびえ泣きしていた。ここだけで上映される短編アニメーションを見るのは三度目くらいだが、こういう光景は初めてだ。
宮崎駿は虫好きだと思うのだが、作中に現れる虫が、意外に生き生きしない。
例えば「風の谷のナウシカ」(84)。「虫めづる姫君」がヒントなのを、作中でも示しているのに、腐海の虫たちの動きが生体感に乏しい。田舎が舞台の「となりのトトロ」(88)も、トトロやネコバスの溌剌たる妖怪ぶり(ジブリ美術館を訪れると、ネコバスが子供たちにいかに好かれているかが実感できる。巨大なぬいぐるみの窓や扉から女の子たちが出たり入ったり、もう離れようとしない)にくらべて、野生の虫たちの印象は薄い。
宮崎から少し離れるが、フライシャー兄弟の長編「バッタ君町に行く」(41。ジブリ美術館発売のDVDに、宮崎の批評的インタビューが入っている)も、虫の世界の話である。と言っても擬人化された虫たちで、作曲家夫妻などの"普通の人間"は、ほぼ下半身(顔を見せない)と声だけで登場する。たまたま如雨露(じょうろ)に入っていた蜜蜂の親父を、作曲家が「標本にでもするか」と冗談半分に言ったのを「バカなことを」と押しとどめた夫人が「さあバンブルさん、あなたの住居はここよ」と庭へ放つ。「私の名を呼んだ......」と感謝し信頼するバンブル氏。誤解と偶然の累積が、摩天楼屋上のペントハウスでの大団円に納まる。旧約聖書の「出エジプト記」か、などと、不信心者が妙な裏読みなどしない方がいいのだろうが、住家を失った虫たちを率いるバッタのホピティの姿は、後の「ポセイドン・アドベンチャー」(72)の牧師ジーン・ハックマンを連想させたりもする。
余談ついでに。マックスとデーブ(ほか)のフライシャー兄弟は、「バッタ君――」の興行不振から分裂してしまうが、ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン監督のCG長編アニメ「バグズ・ライフ」(98)が、(「七人の侍」がヒントなのは誰しもわかるとして)しきりに「バッタ君――」を"引用"している。宙を運ばれる芋虫が地上を見おろして「みんな蜂みたい」とはしゃぐなど、共感以前に、アニメ作家がアニメファンに戻りすぎてやしないかと、いささかシラけたり。
ディズニーの初期の短編でも、昆虫が目立って出てくるものは意外にない。「不思議の国のミッキイ」Mickey's Garden(35)の場合も、庭に殺虫剤を撒こうとしたミッキーが、うっかり自分で吸って気絶し、巨大化した虫たちに追い廻されるのが見せ場で、カブトムシが胸をドラミングして迫るなど、当時大人気だった「キング・コング」(33)の影響などを盛りこんだ、つまりは"悪夢型"の一本。
オムニバス長編「こぐま物語」Fun and Fancy Free(47)の第二話「ミッキーと豆の木」(「ジャックと豆の木」のミッキー・マウス版)では、雲の上の巨人国で、巨大な虫たちが襲いかかる。巨大トンボが、ドラゴンフライの名の通り、大層怖く描かれていた。
ディズニーばかり引き合いに出すようだが、高畑・宮崎にも、ディズニーを連想させる作品がある。演出高畑勲、脚本・美術設定・画面構成宮崎駿の中編「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」(73)を見て、ディズニーの「ダンボ」(41)のサーカス列車を連想したのは私だけだろうか。高畑も宮崎も、ディズニーぎらいを標榜していたが、それは主として長編が主体になってから顕著になった人間観が腹立たしいということで(例えば「眠れる森の美女」(59)で、マレフィセントの呪いのため姫が糸繰りの針で指を刺さないように、城下の糸繰り器をすべて集めて焼き捨てるくだり。宮崎「あれはどんなファシズムよりもひどい!」。)、30年代のシリー・シンフォニーの「田舎のねずみ」The Country Cousin(36)、「風車小屋のシンフォニー」The Old Mill(37)などは、ちゃんと評価している。
虫好きな筈の作者が、虫を今一つ活写できないことは、誰よりも当の宮崎が承知していて、自問自答を繰り返している。今さら横から口出しされるまでもなかろう。たまたま生まれた小さな毛虫(可愛気のない形なのも、作者の意図と見る)にとって、そこはある意味"虫の好かない"世界だったのかも。
編集者から「『風立ちぬ』(2013)についてはまだ書いていませんね」と。言われてみればそうだ。戦闘機ゼロ戦の設計者、堀越二郎の伝記に、結核で婚約者に死なれる堀辰雄(1904~53)の同題の小説(38)をないまぜにした、作者・宮崎駿にとっても、"宮崎アニメ大好き!"という観客にとっても、手ごわい作品である。
どこで読んだのか、雑然たる書棚を探しても手がかりが無いからあきらめて、だからうろ憶えで書くのだが、宮崎家は、かつて飛行機のエンジンを作っていた。軍需産業の家である。「エンジンは、調整のため、しばらく作動させなきゃならないんです。でも、そんなゆとりは無くなり、すぐに飛び立たせていた――」
宮崎はたしか男兄弟で、喧嘩となると抜刀して庭へ飛びおりた。母は結核で、寝たり起きたりだったが、だから尚更だろうが、躾は厳格だったという。昔はなかば冗談のようにまでしきりに引用された「不如帰(ほととぎす)」の浪子が示すように、ペニシリン(これも副作用がめっぽう怖い薬だが)が普及するまでは、死病だった。これも今では実感がなかろう。映画「風立ちぬ」は、なかば作者の父母、祖父母世代へのレクイエムでもある。
ホテルのピアノで、トーキー初期のドイツ・ミュージカルの代表作「会議は踊る」(31。ナチス台頭の時期。日本封切は34年1月)の主題歌「ただ一たび」が演奏され、居合わせた人々が唱和する。日本封切のとき私は一歳にも満たない。SP盤で聴いただけで、映画も戦後、たしかNHKで、画質の悪いプリントで放送したのを見たきりである。音楽関係雑業の長兄に、がっかりした、と率直に言ったら「モット謙虚ナ気持デ見テゴラン」とぬかした。当のTV放送も見ていない十八歳上の兄にとって、あの名作、あの名曲の「会議は踊る」が良くないなどとは、傲慢極まる感想でしかないらしい。そういうことは、ちょっと世代が違うと、しばしば生ずる。昔話には気をつけた方がいい。いや、気をつけても無駄だから、はなからあきらめた方がいい。(「会議は踊る」の関係者は、やがてそれぞれドイツを去り、ヒットラーは1937年に、これを反国家的映画として上映禁止にする。)
ピアノ弾き歌いのシーンは、スティーヴン・アルバートの音程が怪しく、宮崎が、白人にもオンチがいるとは思わなかったと言ったとか言わないとか。そんなウラ話が先行した形だが、でも、いい場面になっていた。
「キネマ旬報」2013年8月上旬号の鼎談で、堀越二郎の声の庵野秀明が、試写で監督が"号泣"していた、とはしゃぎ立てている。私見では、宮崎駿はふつうに"情の人"で、ソ連映画「誓いの休暇」(59。グリゴーリ・チュフライ監督)に感涙。二度目にはタイトルの音楽だけで涙が出るので困った、とか。
宮崎作品の中で、登場人物が涕泣するのはまれである。昨今のように、泣いて見せなければ不人情、と言わんばかりの描写があふれ返ると、目に涙が浮かぶだけで流れないこと自体、作者の節度を感じる。「となりのトトロ」の姉妹の、四歳の妹メイが、おばあさんに連れられてサツキの通う小学校へ来てしまうシーンがいい。涙の乾いた跡のある頬を六年生のサツキに押しつけ、目だけ動いている。「もう泣かないのがいいですね」と言ったら、宮崎「子供には子供の意地がありますから」。後で鈴木敏夫にその話をしたら、「そうです。宮崎は意地の人です」。
後半、サツキが号泣する姿を、離れたメイがきょとんと眺めているのも、いい。あれ? お姉ちゃん、泣くんだ......。(入院中の母の姿も、宮崎駿の母を連想させるのだが、気付くまでにしばらくかかった。)
「風立ちぬ」に戻ろう。皆さん、堀越二郎と菜穂子の初夜が大層気になり、気に入っているらしい。(「魔女の宅急便」(89)の名古屋キャンペーンのとき、キキが親切な少年トンボの自転車に乗せてもらう場面で、スカートがあおられてパンツが見えるのに、嬉々としてこだわっていた取材の女性がいた。私は自然な描写だと見ていたのだが、中には、宮崎の視線を、過剰な女性意識でとらえたがる人がいるらしい。)
「風立ちぬ」の飛行シーンは、夢(時には悪夢)や幻想として描かれる。リアルなのは、たとえば夜中に、当時の地道で機体を牛車で運ぶくだりで、名古屋の工場からだとすると、私の住む濃尾平野の少し東寄りを北上して、岐阜へ向かうのかな、と思ったりもする。(またも余談。国民学校六年生の梅雨の丑三つ時に、隣の深い竹藪から数千羽の鳥が一気に飛び立ったかという音で飛び起きた。初めて聞く油脂焼夷弾の落下音だった。)
放送作家の和田尚久が「風立ちぬ」について言っていた。肺を病む菜穂子が二郎を「来て......」と誘い、歿後に幻となって二郎に「生きて......」と言う。「洒落みたいになるのですが......」キテとイキテの対比なのでは、と言うのである。
「毛虫のボロ」のラスト近く、女の子のスカートの、幼い毛虫に気づいた母親らしい女性が、ちぎった葉に載せ、二階からふわりと落としてやる。またもや「バッタ君――」を連想しそうになるが、人間は全身で描かれ、虫に話しかけたりもしない。毛虫が着いた木の下の方から、次々に立方体が漂ってくる。
「熱風」三月号の、「毛虫のボロ」特集の酒井若菜の文章に、"立方体は「花粉」だろう。(毛虫は)美味しそうに食べている。(中略)花粉を振りまく正体は、ボロギク。サワギクの別称である"と。
「熱風」四月号の「ジブリだより」に、マスコミ向けの試写会で発表された宮崎駿監督のコメントの再録があり、中に、スタッフとタモリさんと「ノボロギクを教えてくれた家内」に感謝します、というくだりがあった。
湯浅浩史著「花おりおり」(朝日新聞社)によれば、ベニバナボロギク。原産地はアフリカで、本州に帰化したのを、津山尚博士が1955年に命名。太平洋戦争中は南洋春菊の名で、代用野菜にされた、と。台湾の先住民はヒコーキグサと呼んだという。綿毛を飛ばすからか。タンポポの綿毛よりも小さい。
私の家内は、1934年台湾生まれ。いわゆる湾生である。父は警察官で、台東山地の先住民の教育担任だった。国民学校五年生の夏に、現人神(あらひとがみ)の国日本の敗戦という"断じてありえない事態"に直面。内地へ追われた。
家内がボロギクを食べたのは、寄宿舎に居たから。家では食べた覚えがないという。ボロギクの味を訊ねたら、「ふつうにおひたしにして、醤油をかけて食べた。味までおぼえてない」と。そして「今ごろボロギクの味を聞かれるとは思わなかった......」とつぶやいていた。
宮崎駿夫人は、たしか東映動画スタジオのトレースだった人。一度、「二馬力」の一階ロビーで誰かと話していられるとき偶然訪れ、ごあいさつした記憶がある。
宮崎駿には、感謝すべき女性がいるのである。あ、私にもか。
(もり・たくや 評論家)
三鷹の森ジブリ美術館は日時指定予約制です。詳しくは、三鷹の森ジブリ美術館HP www.ghibli-museum.jp/ をご覧ください。
「毛虫のボロ」(約14分)の上映は2018/8/31(金)まで。
9/1(土)~9/30(日)(予定)「めいとこねこバス」(約14分)を予定。
※上映作品・鑑賞方法は、都合により予告なく変更される場合があります。あらかじめご了承ください。