書評

2018年9月号掲載

AIと人間の明日はどっちだ!?

松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか―情報化社会における「知」と「生命」―』(新潮選書)

青木薫

対象書籍名:『人工知能はなぜ椅子に座れないのか―情報化社会における「知」と「生命」―』(新潮選書)
対象著者:松田雄馬
対象書籍ISBN:978-4-10-603831-0

 今、人工知能(AI)をめぐっては議論が沸騰中だ。チェスの世界チャンピオンがコンピュータに負けたのはだいぶ前のことだが、いまでは「人間に勝つのはだいぶ先」と思われていた将棋や囲碁でさえ、コンピュータが人間を下すようになった。ゲームよりいっそう人間的だと思われる芸術の分野にも、AIは進出を企てている。近い将来、鑑賞に堪える絵を描いたり、音楽を作ったり、小説を書いたりすることもできそうだと言うではないか。AI技術の可能性については、「こんなこともできる、あんなこともできる」という、素人の予想を軽々と超えるニュースが日々流れ込んでくる。AIの応用分野には、わたしたちの夢をかきたてる果てしない広がりがありそうだ。
 しかしその一方で、社会には大きな不安が渦巻いてもいる。比較的単純とされる工場労働などがどんどんロボットに置き換えられていくのは当然としても、医師や弁護士のようなステータスの高い専門職でさえ、AIで置き換え可能だという話もある。AIはあらゆる領域で人間に取って代わり、人間は社会のお荷物に成り下がるのだろうか? 意識を持ったAIが自己増殖し、いずれは人間の排除に乗り出すのだろうか?
 どこまでが現実でどこからがSFかわからない話が巷にあふれ、素人は困惑するばかりだ。手がかりを求めて本屋に行けば、さすがにAI本はたくさんある。たくさんあるのだけれど、よく見れば、「AIは儲かる!」という本と、「AIは仕事を奪う!」という本のどちらかに分類できそうなものばかり。そんな本をいくら読んだところで、根本的な不安は解消されそうにない。かといって、ウェブに目を向ければ、どこまで信じていいのかわからない情報が濁流のように流れ込んできて混乱に拍車をかける。いったいどうすればいいの? というのが、多くの人の実感ではないだろうか。
 そこでお薦めしたいのが、『人工知能はなぜ椅子に座れないのか――情報化社会における「知」と「生命」』である。ちょっと不思議なタイトルだが、心配は無用だ。著者の松田雄馬氏は、柔らかな語り口で、押さえておきたい基本的なところから説き起こしてくれる。著者はもともと、数理生物学という、数学を使って生命を理解しようという分野の研究者。そこから、生物の知的な振る舞いを人工的に再現しようとする人工知能の研究に踏み込み、長年にわたって、AI技術の開発と、現場への実装に携わってきたという。
 本書の一番の特徴は、著者である松田さんが、AI研究開発の現場でぶつかった疑問を大切に温めて、もともと興味のあった生物をつねに念頭に置きながら、問いを深め、思索を重ねてきた人だという点にあると思う。今、「思索を重ねてきた」と言ったけれど、実は松田さんはまだ三十代の若さだ。枯淡の老人の悟ったような語り口とは全然ちがうし、年配のおっさんにありがちな(失礼!)偉そうなところは微塵もない。むしろ、若い人ならではの意気込みが噴出しているところや、これまでの模索の痕が見て取れるところもあるが、そこもまたこの著者ならではの魅力ではないだろうか。
 もうひとつ、本書の特徴といってよさそうなのは、著者が、AIも人間も大切に思っていて、どちらも良いかたちで発展してほしいと心から願っているということだと思う。本書の序章で著者は、人工知能の歴史は、「錯覚」の歴史ともいえると喝破する。これまで三度にわたって起こった(今、三度目が起こっている)人工知能「ブーム」は、錯覚のなせる業なのだ、と。人間は「知能」というものに強い思い入れがあるがゆえに、人工知能に夢も見れば、ついつい錯覚もしてしまう。しかし現場レベルでは、今回のブームのもとになった錯覚はすでにさめていると言う。AI技術の進展が目覚しいのは間違いのない事実で、錯覚からさめたとき、その実相がわれわれの目の前に明らかになるだろう。そのときわれわれは、AIにどう向き合ったらいいのだろう?
 AIをめぐる現在の喧騒から少し距離をとり、人間社会とAIとのありかたをどう捉えたらいいのか、いや、われわれはどうしたいのかを考えるために、本書は良い手引きになってくれるだろう。

 (あおき・かおる 翻訳家)

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