書評

2018年10月号掲載

『ひとつむぎの手』刊行記念特集

ひたむきに生きる

青木千恵

対象書籍名:『ひとつむぎの手』
対象著者:知念実希人
対象書籍ISBN:978-4-10-121072-8

 第四回島田荘司選ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受け、2012年にデビュー。新潮文庫の「天久鷹央」シリーズが人気を博し、2014年刊行の『仮面病棟』(実業之日本社文庫)が大ヒット。『崩れる脳を抱きしめて』(実業之日本社)が2018年本屋大賞のノミネート作になるなど、デビュー数年で多くのファンに支持されている知念実希人氏。本書は大学病院を舞台にした、真っ向勝負のヒューマンドラマだ。
 主人公の平良祐介は、純正会医科大学附属病院で働く医師である。学生時代から「一流の心臓外科医」を志してきた祐介は、三十代半ばになり、転機を迎えている。執刀数の多い関連病院への出向を望んでいるが、手術のない病院に出されれば腕を磨けなくなり、夢は潰える。そんなある日、心臓外科のトップで、日本有数の執刀医である赤石主任教授に呼び出され、三人の研修医を指導し、うち最低二人を心臓外科に入局させるよう指示される。開胸手術の多い病院への出向をほのめかされ、指導医を引き受けた祐介だったが、熱意が空回りして、研修医たちの反感を買ってしまう。
 物語は四章構成で、救急搬送された患者の容体が安定せず、一睡もできずに祐介が朝を迎えた場面で始まる。ここ数年、心臓外科講座は医局員の減少に悩まされ、個々の仕事量が増し、ハードワークに耐え切れずにさらに医局員が去る悪循環に陥っていた。激務に加えて、人間関係もぎすぎすしている。医局長の肥後は、上に媚び下に強く当たる人物で、不器用な祐介に陰湿な嫌がらせをし、チーム医療で協力し合うはずの他科を敵視する。
 心臓外科と循環器内科が話し合う「冠動脈カンファレンス」や、単なる泥酔と思われた患者の病変と治療など、現場の知られざるディテールが精細に描かれ、読み応え抜群だ。
 ハードワークとシビアな人間関係、さらに研究データ改ざんの告発状が出回り、怪文書の真相も含めてラストまで二転、三転していく展開は、ミステリー作家として鳴らした著者ならでは。ただし、本書はミステリー色もサスペンス色も僅かだ。知念作品のエンターテインメント性を保ちながら、医療現場を舞台にしたヒューマンドラマなのである。
〈やってみないと分からない。そんなふうに思えるのは純粋だからだ。けれどこの医局では、純粋な人間は踏み台にされてしまう〉と、ストレスを抱えて祐介は思う。〈女医は入局してもすぐに、ガキができたとかで辞めていっちまうからな〉と、女性研修医の前で決めつける肥後のような人物は現実にいるようなので、本書は世の中の縮図でもある。純粋さや人間性を捨てて、うまく立ち回った方が賢いのか? しかし、理不尽な状況に対して、主人公は立ち向かう。そこに胸のすくエンターテインメント性がある。
 ただし、知念作品の主人公はヒーローではなくて"等身大"だ。祐介は、真面目すぎて空気を読めず、「教授の甥」で才能のある針谷への嫉妬心を拭えない。他の作品でも、コミュニケーション能力の重要性が叫ばれるこの時代にあって、天久鷹央は"コミュ障"だ。欠点を抱えつつも生きる主人公の姿と人間模様が、読者の心に響くのである。
 ふだん健康に生活していると、「死」は遠い。日々の選択が正しかったのかは分からず、昨日、今日、明日、と誰もが日常をつなぎながら生きて、最期の日を迎えるのだと思う。いつ、どのように死ぬのか見当もつかず、不安だ。だから、人としていろんな葛藤を抱えながらも、心優しく懸命に仕事に取り組む祐介のような医師を応援したくなる。
 本書は、「ミステリー」でも「職業小説」でもない。知念氏が「素の状態」で紡ぎあげたストーリーだ。1978年生まれの著者が四十代にさしかかり、好きなミステリーを抑制して、「ひたむきに生きること」を問う小説なのだと思う。
 どんな枠組みにもとらわれずに、小説という不思議な存在を自らの手で紡ぎあげ、読者を楽しませる。本書は、知念氏がまたもや新境地を拓いた長編作だ。

 (あおき・ちえ フリーライター/書評家)

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