書評・エッセイ

2018年10月号掲載

時制も人称も超えた世界

――アリ・スミス『両方になる』(新潮クレスト・ブックス)

上田岳弘

対象書籍名:『両方になる』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリ・スミス著/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590152-3

 二つのものが繋がって一つになる。そのことはイメージしやすい。というより、そもそも一つだったものがただ観察者の都合で区切られているだけのケースも多い。二つの椅子をくっつけてそれを長い大きな椅子と見るか、あくまで二つの椅子がくっついていると見るか。それは捉え方次第だと言えるけれど、例えば時間を区切って、過去であるといい、未来であると言う場合、それはあくまでも「今」を生きる我々にとっての過去であり未来であって、もし観察者がいなければ時間はあくまでも時間だ。時間、というものをどう定義するかは諸説あるけれど、その諸説を内包して屹立する「時間」そのものは一つだけのはずだ。けれど、我々、つまりは観察者の存在がいやおうなくそれを分割せざるを得ない。操作する意志などなくとも、視線はおのずと物事を分ける。観察者がいる限り、ある種の物事は一つではいられないことが多い。
 作家は言葉で世界を切り取る。極力現実の在り方に近づけようと、その視点を限りなく無に近づけようとしても、必ず作為は残る。人称の設定、時制の設定。誰がいつのことを語っているのか。主語は私なのか、彼なのか、あなたなのか。過去形なのか、現在形なのか。それが一文一文で変わることもあるだろうし、文章の途中で変わることだってしばしばある。曖昧にぼかされていることもあるだろう。けれど、無にはできない。言ってしまえばそれは、物語ることの宿命みたいなものだ。
『両方になる』でアリ・スミスが採用するのは、作為を無に近づけるのとは逆のアプローチだ。二つの物語=時間で本著は構成される。一つは、男性しかなることを許されなかったルネサンス期の画家の物語。もう一つは、抗生剤のアレルギー症状で母親を亡くしたばかりの現代イギリスの女の子の物語。当然、ルネサンスよりも現代の方が時間的には後にある。現代から見ればルネサンス期はそれこそ抗生剤で細菌を除去することもできなかった古い時代だ。性差別をはじめとする欺瞞が問題視されることすらなかったその時代、人々は個人の力ではどうにもできない因習に従って生きるしかなかった。男性しか画家になれなかったのだから、本当の性別はどうあれ、その画家は歴史的には"男性"画家なのだ。ならば、画家であることに、つまりは絵を生み出す能力そのものが正しく世界に位置づけられることを望むが、それも叶わず、彼/彼女の実存は時間という濁流の中に飲まれてしまう。
 けれどその時間をみつめる観察者である作家は、その画家に目を与える。読者はそこに作家の作為を覚える。画家は、それが未来とも気づかずに現代を幻視する。そして画家が見つめる現代を生きる少女は、ルネサンス期にはなかった抗生剤の副作用で母親を亡くす。多くの命を救った抗生剤によって、過去よりずっと安全なはずの現代で命を落とすという皮肉。これもまた作家の作為。
 多くの作家は影を消そうとするそんな作為を、アリ・スミスは消そうとせずに、むしろ作品の中心に埋め込まんとする。まるでそれが、我々のあずかり知らないところで存在する物理現象と同種のものででもあるかのように。我々には動かしがたいと思われる天与の自然現象も、あるいはこんな風に誰かの作為によってあっさりと形作られていったのではないか。あけすけですらある作家の手つきは、そのことに不思議な安らぎと説得力を与える。それは、読後に知った本著の驚くべき仕掛け(ギミック)にも通じる、表層を突き破った本質に焦点を合わせることのできる作家の特異な目のなせる業だろう。
「芸術は何もしないことによって何かを引き起こす」。iPad の画面をハックして表示される亡き母の作ったゲリラ広告(サブヴァート)。見ることしかできない二つの物語をつなぐ大胆な仕掛け(ギミック)は、それらを一つに収斂させるのではなくて、過去と未来その両方にする。そこには、時制も人称も超えた"世界"の確かな手触りがある。アリ・スミスは、世界を切り取るというまさに作家の仕事によって、世界のルールを一段階微分して見せた。

 (うえだ・たかひろ 作家)

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