書評
2018年10月号掲載
国家と個人の関係を考えさせる肖像画
冨田浩司『マーガレット・サッチャー 政治を変えた「鉄の女」』
対象書籍名:『マーガレット・サッチャー 政治を変えた「鉄の女」』
対象著者:冨田浩司
対象書籍ISBN:978-4-10-603832-7
英国の書店を訪れられたことのある方はご存じであろう。ワンフロアが丸々「伝記」コーナーで占められている光景を。さらにこの国は全六〇巻、五万人以上を収録する世界最大の人名事典をつくり、ロンドン中央部には肖像画だけを飾る国立美術館さえある。英国人はとにかく「人物」が大好きなのだ。
こうした英国の評伝文化に魅了され、『危機の指導者 チャーチル』(新潮選書、2011年)に続き、『マーガレット・サッチャー』を上梓されたのが稀代の外交官にして歴史家の著者である。
サッチャーといえば、二〇世紀の英国で最長の十一年半にわたる政権を維持し、低迷を続けていた経済を「金融ビッグバン」などで立て直すとともに、国有企業の民営化を大胆に進め、財政再建も成し遂げた偉大なる首相である。また、アルゼンチンとのフォークランド紛争で毅然とした態度を示し、ソ連の新しい指導者ゴルバチョフの可能性を西側でいち早く見抜き、ヨーロッパにおける米ソ冷戦の幕引きに多大な貢献も示した。
このようなサッチャーの確固たる信念に基づく諸政策の根底には、幼少時からのキリスト教信仰による「個人の責任」の重視と「自助」の精神に裏打ちされた彼女の道徳観がはっきり見られると著者は喝破する。ともすればマネタリズムや自由経済という側面ばかり強調される「サッチャリズム」の根源を考えるうえで、この指摘は重要である。二〇世紀に生まれたとはいえ、彼女の政治的理念の背景には一九世紀後半のヴィクトリア時代の精神が連綿と生き続けているのである。
これまた著者が鋭く指摘しているように、政治も外交もすべて「人間と人間との営み」である。国内外を問わず、政治や外交の世界に長年身を置いてきた著者のサッチャー政治に対する洞察力が特に冴えわたっているのが、フォークランド紛争をめぐる駆け引き(第四章)と冷戦終結にいたる各国首脳たちとの丁々発止のやりとり(第六章)にもうかがえる。
しかし、すでに政権発足数年後に側近の一人が彼女に苦言を呈したとおり、戦略的思考に欠け、同僚との人間関係を円滑に進められなかった彼女にもやがて「落日」のときが訪れる。その彼女が今日のわれわれに残してくれた遺訓とは、二〇世紀の間に紆余曲折を経てきた「国家と個人の関係」を、われわれはもう一度考え直すべきときにきていることをその知的真摯さから説くことだった。
著者はサッチャーを「人間的にはどうしても好きになれない」と語るが、この二〇世紀でも最大級の傑物の政治的人生を冷徹に見つめ続ける姿には感服する。本書は、著者自身も魅了された英国流の評伝の伝統にのっとり、二〇世紀のわれわれの世界をもう一度見つめ直すためのまさに「最高の肖像画」といっても過言ではなかろう。
(きみづか・なおたか 関東学院大学教授)