書評
2018年11月号掲載
人生の終焉を包み込む幸福な時間
――村田喜代子『エリザベスの友達』
対象書籍名:『エリザベスの友達』
対象著者:村田喜代子
対象書籍ISBN:978-4-10-120352-2
本作を読みながら、私の頭の中には、介護現場で聞き書きをする私に思い出を語ってくれ、そして既にあの世へと旅立った何人ものお年寄りたちの存在が懐かしく蘇ってきた。
戦前の京城(今のソウル)で生まれ育った清子さんは、女学校の帰りに日本人街のいくつもの百貨店に寄り道をして胸躍らせたことを語ってくれた。一方、同時代に平壌で少女時代を過ごした由紀子さんは、豊かな京城に比べどんなに平壌が貧しかったか、それでも暖かなオンドルのある部屋で家族身を寄せ合って暮らしていたのが喜びであったことを何度も繰り返し語ってくれたのだった。
語ってくれたお年寄りたちは認知症の方もそうでない方もいる。けれど、九十歳を超えたお年寄りたちはみな、単に思い出語りをして遠い昔を懐かしんでいたというよりも、その語られた若い頃の時空と現在の時空とがマーブル状に溶け込んだ「今」を生きていたのではないか、それが彼らにとっての幸せだったのではないかと本作を読みながら改めて思えた。
本作の舞台となる介護付き有料老人ホーム『ひかりの里』に暮らすお年寄りたちは、まさに現在と過去とが混ざり合う時空を生きている。
戦前の天津の日本租界で豪奢なドレスや宝石を身に着けて優雅な新婚生活を送った初音さんは、娘の淹れたジャスミンティーの香りに誘われて時空を飛び越え、天津の茶店で友達とお茶飲み話に興じたり、友達と連れ立って百貨店でドレスやハイヒールの試着を楽しんだりする夢に浸る。あるいは、長女を身籠った二十歳の頃に魂も体も戻って、おなかの子が流産しないかと不安がる。
また、戦時中、大切に育ててきたシェパードのアジア号を軍用犬として戦地へ送った虎夫さんは、ボランティア犬が施設に来るたびにアジア号の姿を重ね、生きて帰ってきたことの歓喜と戦地に送ってしまったことの悔恨の情で身を震わせ号泣する。
寝たきりになったり、認知症が進行した『ひかりの里』のお年寄りたちは、それぞれが自分の歩んできた人生のいくつかの局面を生き直して、幸せや喜びに浸ったり、過ちに赦しを請うたりして、人生の終焉の時を過ごしているのである。
言葉によるコミュニケーションが難しくなったお年寄りたちが、いったいどんな「今」をどんな思いで生きているのか、介護をする側の私たちには本当のところはわからない。ただ、わずかに発せられる言葉やしぐさ、そして、もう少し元気だった頃に聞いた思い出話や昔の写真などを手がかりに、彼らの生きてきた時代に思いを馳せながら、それぞれが想像してみるしかない。けれど、時間に追われる多くの介護現場では、その想像力を働かせる時間的余裕も注ぎ込める余力もないまま介護をせざるを得ないのが現実である。
でも、もし本作で描かれるような現在と過去とが混然としたお年寄りたちの「今」が想像できたなら、介護現場で見えてくる風景はきっと全く別なものになってくるに違いない。
時空を飛び越えて生きるお年寄りたちは、しばしば、裏口の鍵を開けて外へ出て行ったり、戦前の歌を聞きながらいきなり発作のように激しく謝り始めたり、自分の名前を問われて「エリザベス」という謎の名前をつぶやいたりする。それは、介護現場では、「問題行動」というレッテルを貼られて管理や治療の下に置かれたり、自分の名前すらわからなくなったと認知症の末路として哀れみの対象になったりする。
けれど『ひかりの里』では、誰もそれを咎めたり、管理したり、哀れんだり、ましてや治療しようとしたりはしない。ベテラン看護師は、「良い介護とは人生の終幕の、そのお年寄りのいい夢を守ってあげることだ」とお年寄りの行動を温かく見守りながらさりげないケアをしている。若い介護士たちもお年寄りたちの不可思議な言動の背景を彼らなりに想像することを楽しんでいる。入所している親の面倒をみにやってくる家族たちも、子供の顔さえ分からなくなっていくことに落胆しつつも、親が親しい者たちに囲まれた過去の風景の中に生きていることを、それもまた本人にとっては幸せなのかもしれないと受けとめようとしている。そんな『ひかりの里』だからこそ、お年寄りたちも安心して時空を超えて最期の時間を豊かに生きられているのだろう。
介護や介護現場はネガティブにとらえられがちだが、人生の終焉をこんな幸せな時間や空間に包まれて生きられる場があったら、老いることや介護することは、切なくはあっても、きっと絶望ではなくなる。そう思わせてくれる心温まる爽やかな小説である。
(むぐるま・ゆみ 介護福祉士/介護民俗学)