書評・エッセイ

2018年11月号掲載

哀れみの言葉に抱いた違和感

――小谷みどり『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』

小谷みどり

対象書籍名:『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』
対象著者:小谷みどり
対象書籍ISBN:978-4-10-352131-0

「没イチ」――聞き慣れない方も多いかもしれないが、離婚した人を総称する「バツイチ」ならぬ、配偶者と死別した人のことを指す。
 昨今、男女ともに平均寿命が伸び、没イチになる年齢が上がっている。以前は、2000年を例に取ると、亡くなった男性の3人に2人は70代以下だった。「夫に先立たれた妻は、意気揚々と老後を謳歌している」と揶揄されたが、早いうちに妻が没イチになっていたので、元気なのは当たり前だった。
 しかも、かつては三世代同居がまだまだ多かった。1980年の時点で、高齢者の半数以上は三世代同居をしていたが、いまや1割程度しかいない。高齢期世帯は夫婦2人か、1人が当たり前という時代になり、没イチは、1人暮らしのスタートを意味するようになっている。
 男性の平均寿命が劇的に伸び、妻に先立たれるシニア男性が増加している。これまでは没イチ=女性というイメージが強かったが、これからは男性の没イチシニアがさらに増える。男性の多くは自分が先に逝くと頭の中で思い込んでいるので、順番が狂うと、その後の人生の立て直しが大きな問題となる。
 私も実際に7年半前に夫を突然亡くし、没イチになった。そこで初めて体験し、違和感を覚えたことのひとつが、没イチに対する世間の眼差しだ。相手から「かわいそうに」「さびしいでしょ」という哀れみの言葉をかけられるたび、「結婚すれば離婚しない限り、必ずどちらかが没イチになるのに、なぜ腫れ物に触るように扱われるのか」と、疑問に思った。「しばらくは、楽しそうにしないほうがいい」という忠告をくれた人もいた。
 もちろん、私を思いやっての言葉であることはわかっている。しかし被害妄想かもしれないが、「没イチは、さびしくてかわいそうな雰囲気を醸さなければならない」という世間からの制裁を受けているような気持ちになった。そのうえ「かわいそうなのは亡くなった夫の方であって、私ではない」と、私には違和感が残っていった。
 私は死別前から、50歳以上を対象とした立教セカンドステージ大学で死に関する講座を担当していた。ある年の講座が始まってみると、講義中、ほかの学生とは明らかに異なる雰囲気の学生がいた。
 彼は妻に先立たれ、生きる気力をなくしたものの、これではいけないと一念発起して入学してきたのだ。そんな彼が、月日がたつにつれ、どんどん明るくなり、放課後に「みんなで飲みませんか?」と私を誘ってくださるまでになってきた。仲間の存在が人を変えることを目の当たりにした私は、同大学学生の没イチ仲間で、「没イチ会」を作ることにした。
「没イチ」という言葉に、「失礼だ」と嫌悪感を抱く人が少なからずいることも理解しているが、バツイチは市民権を得たのに、没イチにはなぜ失礼だと感じるのかという疑問が私にはあった。私はあえて、タブー視される現状に一石を投じたいと思い、会の名前に「没イチ」を冠した。先立った配偶者の分も人生を楽しむというテーマをみんなで共有し、没イチを特別視する社会を変革しようという小さな取り組みだ。
 本書は、この没イチ会のメンバーに、配偶者と死別し、立ち直っていくまでの過程をインタビューして紹介するとともに、没イチになったあとの人生をどう送るかという話題にも触れた。自分が死ぬことも、大切な人に先立たれることも、どんな人にも必ず起きるのに、自分には関係がないと思ったり、考えないようにしている人は案外多い。かくいう私も、死の迎え方について研究してきたのに、没イチになってはじめて、配偶者に先立たれるという問題への関心が薄かったことに気がついた。死にゆく人と死別した人と、後先が違えば同じ立場になるのだから、かわいそうな存在ではない。没イチになった人生を1人でどう生きていくかは、これからの社会において大きな課題となる。最後は1人という覚悟のためにも、事前に考え、家族で話し合うことの重要さに気づいていただけたらと思う。

 (こたに・みどり 第一生命経済研究所主席研究員)

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