書評・エッセイ

2018年12月号掲載

アメリカ短篇小説の黄金時代を味わう

――ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』

金原瑞人

対象書籍名:『巨大なラジオ/泳ぐ人』
対象著者:ジョン・チーヴァー著/村上春樹訳
対象書籍ISBN:978-4-10-507071-7

 翻訳者村上春樹氏が三十年以上前から、いつか訳してみたいと考えていたジョン・チーヴァーの短篇小説十八編とエッセイ二編をまとめた一冊である。巻末に添えられた柴田元幸氏との対談でも言及されているように、一九五〇年代の「ニューヨーカー」には、「サリンジャーが書き、チーヴァーが書き、カポーティが書き、フラナリー・オコナーも書いていた、そういう勢いが」あった。そのアメリカ短篇小説の黄金時代を代表する作家のひとりチーヴァーの作品の特徴は、いわゆる短篇小説の型がくずれそうなくらい、彼独特の感性や視点やメッセージが盛りこまれていながらも、どれもが短篇としての矜持を保っていることだろう。
 高級アパートメントに住む三十代後半の夫婦が買った新しいラジオが、ほかのうちの声を拾うことに気づく話(「巨大なラジオ」)。ブロードウェイのプロデューサーの目に止まって、劇作家としてデビューすべくインディアナ州から家族を連れてニューヨークにやってきた男が経験する悪夢のような話(「ああ、夢破れし街よ」)。飲んだくれや、薬中や、酔っ払うと手が着けられなくなる乱暴者といった男にばかりほれてしまう女を遠くから見守っている男と、その男のたどる奇妙な運命を描いた話(「トーチソング」)。ゲイの男を乗せることを拒否するエレベーター係が目にする、ゲイの男の悲劇(「バベルの塔のクランシー」)。
 最初の数編をごく簡単にまとめるとこんな感じだ。どれも一見、物語性が強く、概要がつかみやすい。そして、それぞれ、洒脱にまとめようとか、ブラックな展開にしようとか、エンディングはうまくひっくり返してやろうとか、そういう意図も素直に伝わってくるし、どれも見事に決まっている。
 たとえば、「林檎の中の虫」という短篇は、同じ形の軽いひねりがどこまでも続いていく。完璧に幸せなクラッチマン夫妻を見て、人々は、あんなに大きなガラス窓がついているのは、罪の意識にさいなまれているからだ、ふたりの屍体性愛を思わせるような庭いじり好きは病的だなどと考える。ところがそんなことはなく、ふたりは健全に幸福だ。また人々は、夫妻がもうけたふたりの子どもに対しても、不幸にいたる様々な物語を想像する。しかし、そんなことはない。やがて子どもが巣立ってしまって、夫妻は精神的空虚さを感じるようになるのではないか、という憶測も飛ぶが、ふたりは「幸福に幸福に幸福に幸福に暮らしたのでした。」と結ばれる。この意味ありげなエンディングもうまい。つまり、ここに収められた短篇は一九世紀後半から二〇世紀半ばまで欧米で培われてきた短篇小説の面白さを十分に味わわせてくれる。
 しかし、もっと面白いのは、思い切りチーヴァー的なディーテイルの書きこみだ。たとえば「カントリー・ハズバンド」は、飛行機が悪天候に突っこんで緊急着陸するものの、全員無事に外に出るところから始まって、それに乗っていたフランシスがうちに帰って、九死に一生を得た話をしようとするけれど、だれも耳を貸してくれない。なんだか松尾スズキが戯曲を書いて、古田新太が主演しそうなとてもおかしい話なのだが、それだけでなく、細部がおかしい。メイドの顔を見たときのフランシスの描写とか。「彼の記憶は言うなれば盲腸――退化器官のごときものだった。過去から逃げられないという限界は彼にはまったくなかった。彼の限界はむしろ、過去からしっかりと逃げ切ってしまったところにあった」というチーヴァーならではの皮肉のきいた文章。そしてフランシスは戦争末期のことを思い出し、「中年期の黄昏の恋」にのめり込んでいく。このチーヴァーならではの、いきなりの展開が逆に必然に思えてしまう語りのうまさ。
 短篇の最後に置かれた「ぼくの弟」も、一家の鼻つまみ者になっている弟のことを延々と様々な場で描写していくところは読者も、なんとなくそうだろうなと思っているけれど、そんな予想を半分以上破りながらのチーヴァー的展開は読者の胸を突く。
 短篇の枠組みを巧みに利用しながら、それを自分的ディーテイルと展開でゆがめ、ずらしていくチーヴァーの魅力があふれている作品集。

 (かねはら・みずひと 翻訳家)

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