書評

2018年12月号掲載

アリス・マンローの正確な手付き

――アリス・マンロー『ピアノ・レッスン』(新潮クレスト・ブックス)

津村記久子

対象書籍名:『ピアノ・レッスン』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:アリス・マンロー著/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590154-7

 これは書く(描く)価値があることなのか? という作り手の高みからの選別は、物語を創作することにどうしてもつきまとう行為だと思う。ひどい場合だと、選別の過程すらなく、もう始めから書かれるべき登場人物の属性も作中の行動もいくつかのパターンが決まっていて、その順列組み合わせのみで物語が作られるということもあるだろう。そしてそれが人から好まれないということもない。
 それでも、見えにくいながら「書かれることを待っている」物事を発見する作り手の視点や手つきには常に敬服する。世間にあまねく俗情や凡庸な物事が、ある書き手が見つけて文章にすることによって、かけがえのない人間の一部分を切り取った物語に昇華される。わたしにとっての優れた作家の資質の一つは、冒頭に書いた選別をなるべくおこなわない方に向かっていることだ。そして「書かれることを待っている」物事を正確に発見し、余さず決めつけずその本質を平易な言葉で切り取ることだ。
 アリス・マンローはきっと、世界一というレベルでそれができている作家なのだと思う。マンローが小説に拾い上げた無数の物事は、どんなみじめさやままならなさや些細なことであっても輝いている。そこで味わう感慨は、たぶん誰もが持っている、言葉にはできないけれども記憶に残っている何かだ。
 どの小説でも、読み手はすれ違う誰かの人生のほんの一瞬を鮮やかに垣間見る体験をする。「乗せてくれてありがとう」という話で語り手の少年は、大して仲の良くない従兄と車で出かけた先で渋々声をかけたアデレードとロイスという女の子たちとデートのようなことをする。服を着替えたいロイスは自分の家に語り手を連れて行く。なんの事前のしらせもなく、その日会った女の子の家族と会うことや、生活のにおいのする他人の家に踏み込むことの緊張が精細に思い出される。主人公とその家族の経済状況について見透かしたような口調で語り、ロイスの父親に起こった事故について滔々と打ち明けるロイスの母親について語り手は「この人たちは生まれつき狡猾で、惨めで、訳知りなのだ」と考える。そういう人々に突然会わされることにまつわる身の竦む思いのあと、ロイスの祖母は語り手に「うちの孫娘は好きにしていいよ」とあけすけに言う。そして十代半ばで退学して働いているというロイスは、どこまでも世慣れてひねくれた態度を崩さず、語り手に自分の手持ちの服を自慢する。その後二人の間に起こることと、「乗せてくれてありがとう」というロイスの言葉の対比は、あまりにシニカルで乾いている。しかし同時に、自分はこういう体験をしたことがあるとも思うのだ。わたしは少年であったことなんかないのに。
「仕事場」という作品では、小説を書こうとしている一家の母親である語り手が「薬局と美容室が入っている建物の二階」に仕事場を借りることで、家主の男に精神的につきまとわれるという体験が描かれている。語り手のあらゆる隙をうかがい、不要な物を贈り、戦利品を獲るように小さな干渉を繰り返すミスター・マリーという人物にも、やはり出会ったことがあるような気がする。誘惑や略奪に表出されることはなくても、人は人から何かを奪おうとするという事例が、誘惑や略奪でないからこそ強烈に身につまされるものとして描かれている。ものすごくおもしろい。
「蝶の日」では、弟の面倒をみなければいけないがために孤立しているマイラという同級生と、ほかの女子と同じように彼女を遠巻きにしつつ、ある出来事をきっかけに話すようになる「わたし」のぎこちない関わりが描かれる。あの子としゃべっているのがばれると自分が仲間うちで気まずくなる、という典型的な子供の葛藤の中、マイラは「ハッカツ病」で入院することになる。まとわりつくような自分と同年代の子供の不幸を知覚しながら、マイラへの不実さを盾に子供時代を生き残ろうとする「わたし」の弱さと薄情さもまた、誰の身にも覚えがあるだろう。
 普通の人々が交錯する妙なる一瞬。表題作にして最後を飾る作品である「ピアノ・レッスン」の冴えない女のピアノ教師が、語り手に半ば呆れられ同情されながらも周囲の推測の外にある巡り合わせへと入っていく様子は、その閃きを感動的に象徴している。何も起こらないようでいて、何かは起こり得る。その火花のような兆しを、本書は圧倒されるほど無数につかまえている。

 (つむら・きくこ 小説家)

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