書評
2018年12月号掲載
描く、貼る、撮る
――大竹伸朗『ナニカトナニカ』
対象書籍名:『ナニカトナニカ』
対象著者:大竹伸朗
対象書籍ISBN:978-4-10-431004-3
文章と写真一点を組み合わせた五十三篇のエッセイが入っている。五年にわたって『新潮』に連載されたもので、ひとつひとつが完結しており内容的なつながりはないが、読み進むうちにエネルギーの渦のなかに巻き込まれていくような錯覚に陥った。展覧会やそのための制作など、著者の身辺では常にいろいろなことが起きており、そうした出来事が綴られているようでいて、まったくちがうのだ。外界の事象と自分の身体が接触するポイントに執拗に目が凝らされている。自己観察とも言うべき行為による認識と発見、それがもたらす創作への意思と覚悟。流れる水をすくい上げては落として回る水車のように、シンプルかつ信頼の置ける装置によって創作のエネルギーが維持されているさまが見えてくる。
重きがおかれるのは意味や理屈ではなく衝動、体のなかから湧き起こる反応である。手の動きによって、さっきまで存在しなかった線がいま目の前に出現していく驚き。子どもが描くことに興奮するのはそのためだが、それと同質の歓びをいまも追いかけている。手元に筆ペンを置いて、その瞬間が来たら深く考えずに描く。心のなかに沈殿しているものをペン先から紙上に「逃がす」のだ。
中学生のときにレンブラント展を観て魅了され、油絵を描くようになった。その衝動も捨てずに保たれているが、スケッチとはやや異なり、自分のなかにもやもやとあるものを「形」にして取り出し集結させる、深く連続していく行為だ。
その一方で、自分の外側にあるものに強く引っ張られることがある。それを象徴するのは「貼る」ことだ。ロンドンに暮らしていた二十代、先が視えない人生の不安が路上に落ちている紙クズによって救われ、モノの価値が逆転するのを体験した。それ以来、気になるものを拾ってはノートに貼りつけだす。いまもつづく「スクラップブック」シリーズのはじまりで、その数七十冊に及ぶ。
巨大な立体作品も手がけるが、その基本になっているのも貼ること、すなわちコラージュで、廃品や用済みのものが貼り重ねられる。「どんなモノにも与えられた場所以外に必ず別の居場所がある」という信念のもと、複数のものに居場所を与えてつないでいくありようは、表現者というより仲介人に近く、自分のなかの形を取り出すときですらその所有者が自分だとはさらさら思っていないような、路上でモノを拾うような手つきなのだ。
「描く」「貼る」のほかにもうひとつ、彼が若いときからずっと続けているものに「撮る」がある。路上を歩いて気になるものにシャッターを切る。あるいは、いつも見ているものがちがって見えた瞬間を逃さずに撮る。本書でいえば一二八頁の桜の写真がそうで、太い幹はどう見ても水道管であり、そこから桜花が噴き出す水のように咲いている。
スケッチが自分の内側にカメラをむける行為とすれば、写真の場合は外部にカメラがむけられる。方向が逆のようだが、よく考えるとそうではないのである。写真に撮ればいやおうなく記憶の内側に残る。意識しなくてもそうなり、時間がたつとほかの記憶とブレンドされて、もやもやした形を成し、体内から取り出したいという欲求をもたらす。取り出したものははっきりと意識化されるから、路上で似たものに出会うとまた反応して撮ってしまう、というように彼の内界と外界は連鎖し、ループ状につながり、水車のようにまわり続けているのだ。
論理に頼らず、最終形をイメージすることもせず、内なる声だけを聞きとり進んでいくというのはスリリングだが、保険のない原始的な方法といえる。創作へのエネルギーが突然ぴたりと止むのではないかという自問が繰り返しなされており、それは明日、死んでしまうかもしれないという生命のもつ根源的な不安に近い。
ここにきてふいに、「どんなモノにも与えられた場所以外に必ず別の居場所がある」という前述の言葉がよみがえってくる。人間はどうなのか、与えられた以外の居場所はあるのか、と問うてみる。いや、人間はモノではなくて生身だから、いまここにしか居場所はない。ということは、モノたちに別の居場所を見つけるという人間だけに許された行為を脇目もふらずに一直線に実践しているのが大竹伸朗なのではないか。そう思うと、彼が一風変わった科学者のようにも見えてくるのだ。
(おおたけ・あきこ 作家)