書評
2019年1月号掲載
乙川優三郎 二冊連続刊行記念特集
文章家の再生
――乙川優三郎『二十五年後の読書』
乙川優三郎さんの長篇小説が2冊、連続刊行されます。
『二十五年後の読書』(10月刊。小説新潮に連載)は書評家の女性、『この地上において私たちを満足させるもの』(12月刊。連載と並行して書き進められた書下ろし!)は男性の小説家が主人公。
翻訳家の小川高義さんと小説家の角田光代さんにそれぞれの長篇を書評していただきました。
対象書籍名:『二十五年後の読書』
対象著者:乙川優三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-439308-4
いまから思えば、という後出しじゃんけんのような議論だが、時代小説を書いていた頃の乙川優三郎は、そのジャンルには類例の多い自作のシリーズ化ということを避けていた。よくある捕物帳のように、おなじみの主役と脇役がいて、さて今回の事件はいかに、という展開にはしないのだから、読者は一冊ごとに人物像や人間関係をさぐらねばならない。本来、それもまた小説を読む楽しみに含まれるはずだが、その手間を省いてストーリーの娯楽に徹したいという需要も少なくはないだろう。だが乙川は、主題としても文体としても、お約束の定型による安心感に寄りかかろうとはしなかった。さらには時代小説という枠組みさえも抜け出し、近い過去に取材した『脊梁山脈』(2013年)を一種の橋渡しとして設定を現代に近づけ、『ある日 失わずにすむもの』(2018年)では世界大戦に見舞われる近未来の人々を書いている。また翻訳小説のような筆法を取り込むかに見えることもある。
その乙川に一貫して見られる傾向として評者が挙げたいのは、人物の造型に職業が深く関わっていることだ。たとえば武士が主人公になるとしても、それは刀を振りまわす活劇を求めるのではなく、武士という職業に生きる倫理を追うことが主たる目的になっていた。そして、どんな職業であっても、その特質が綿密に書き込まれて、作品の魅力を支えるとともに、どこか厳しい印象をあたえることにもなる。乙川文学では、いいかげんな仕事は許されない。
『二十五年後の読書』にあって、その職業は書評である。中川響子は旅行の業界紙に勤めた経験をもとにエッセイストになった。またカクテルの創作をするバーテンに肩入れしてもいる。物語の進行は、響子が五十五歳から五十七歳にかけての二年ほど。編集者の勧めで書評家になった響子は、むやみに誉めない辛口のタイプとして評判を得る。季節の推移を示す表現が多めに使われるので、読者が時間の経過を見失うことはない。二年の現在時に対して、その前提となる過去の事情が随所に割り込んでくる。また文章を書くという仕事について、危機感にも似た辛辣な批判が日本語の現状に浴びせられる。
言葉と向き合う職業が男女関係の基盤になるという点で、乙川作品としては『ロゴスの市』(2015年)との近縁にあると言えよう。そこでは翻訳と通訳で生きている男女が、つかず離れずの恋愛をたどっていた。今回は響子の相手役として三人の男が配されている。かなり濃艶な表現もあって、恋愛というよりは性愛というべきかもしれない。あえて言えば、作品全体に、響子の男と酒が見えている。三人の男は、作家、学芸部記者、バーテン。まるで三本の糸を張ったような物語だが、糸の太さは明らかに違う。最も太い糸である谷郷(やごう)敬という男は、カメラマンから作家に転じて四半世紀になる。響子にとって谷郷との関係だけを見れば、いわばエロスとロゴスの二本立てで、三十年越しの男と女であるほかに、いまは速筆で劣化した彼の文章をもどかしく思いながら、書き下ろしでの復活に期待する、という感情が響子を谷郷につなぎとめている。
だが結局、三本の糸はすべて断たれ、そのあとに本物の山場が来るという構成だ。ロゴスの関係だけが残った作家と書評家が切り結び、「二十五年後の」という題名の意味もすんなりと読者の腑に落ちて、おおいに酬われた気分で長篇を読み終えることができる。谷郷のみならず、「作家の良心に負けないものを書きたい」という響子にとっても、文章家としての再生がある。
ネット上に、ときには活字メディアにも、あからさまに誤読しておいて訳知り顔で点数をつける、あるいは対象の書籍を利用ないし悪用して都合よく自説を述べ立てる、といった書評もどきが横行している。そんな風潮との画然とした違いを見せつける響子が、じつに清々しく、また頼もしい。トリックスターめいた活躍で物語を動かす編集者のキャラクターも印象に残った。
(おがわ・たかよし 翻訳家)