書評
2019年1月号掲載
「粗屋」の開店はいつ?
――小泉武夫『骨まで愛して 粗屋五郎の築地物語』
対象書籍名:『骨まで愛して 粗屋五郎の築地物語』(新潮文庫改題『魚は粗がいちばん旨い―粗屋繁盛記―』)
対象著者:小泉武夫
対象書籍ISBN:978-4-10-125948-2
東京農業大学名誉教授、農学博士で発酵学の権威。自らを"味覚人飛行物体"と称し、『猟師の肉は腐らない』『絶倫食』など著作も豊富な小泉武夫先生の書き下ろし小説は、中卒で築地市場に入り一流のマグロ解体人となった主人公・鳥海(とりうみ)五郎が、日本唯一の粗(あら)専門料理「粗屋(あらや)」を開店する物語。
「粗」とは何か。魚の「頭や目玉、骨、鰭(ひれ)、皮、血や血合い、浮袋、胃袋、心臓、肝臓、腎臓、腸(わた)、砂ずり、中落ち、腹の下、白子(しらこ)、卵巣など」、つまり刺身をとった残りの捨てる所だ。
粗屋のお品書きの例えば「皮料理」は、「皮煎(かわいり)=鮭や鱒(ます)の皮をはいで、酒、醤油(しょうゆ)、味醂(みりん)で濃いめに煎る。お通し、箸休(はしやす)めに」「鱧(はも)の皮膾(かわなます)=小骨を抜いた鱧皮をさっと洗って水気を去り、遠火にかけて両面から焦げ目のつかぬよう焼き上げ、細かに切って胡瓜(きゅうり)もみに和える」「鮫氷(さめすが)=材料は鮫でなく翻車魚(まんぼう)を使うこと。翻車魚の皮は鮫より弾力に富むので、歯応えが楽しめる。細かく刻んで酢の物に。また、皮の下に繊維状の軟骨があり......」。
魚の皮だけで酒が飲める。さらに「浮袋料理」「骨料理」「腸(わた)料理」などなど。「皮料理」は五十三品、「卵巣料理」は全部で八十四品もあり、まさに著者の"粗好き"全開だ。
酒好きには「酒も重要だ」と始まる行にわくわく。「寒い冬には、まず河豚(ふぐ)の鰭酒(ひれざけ)、そして熱燗(あつかん)。夏の暑い日は、キリリと冷やした日本酒に海鼠(なまこ)の腸(わた)を入れた海鼠腸酒(このわたざけ)がいいだろう」。鮃(ひらめ)の骨酒、真鱈(まだら)の白子酒、虎魚(おこぜ)の鰭酒......。〆は「粗茶漬け」といこう。氷頭(ひず)茶漬け、鮭皮茶漬け、鰻(うなぎも)の佃煮茶漬け、鮪(まぐろ)の中落ち茶漬け、烏賊腸(いかわた)の塩辛茶漬け、鮎の腸(わた)の鱁鮧(うるか)茶漬け、河豚卵巣の糠漬(ぬかづ)けの茶漬け、蛸(たこ)の子塩辛茶漬け。丼ものなら、甘酸ぱく煮た鱧皮を丼飯のうえにのせて蒸す鱧皮丼、鱓(うつぼ)皮蒲焼きの精力丼、いろんな粗の煮凝(にこごり)丼。
それらが「滑らかな餡(あん)に包まれた鰭が歯に応えてコリコリしながら繊状にほぐれていく。トロトロのゼラチン質から絶妙のコクとうま味が湧き出してくる。すぐに呑み込んでしまうのは勿体ないと、しばらく口の中でころがしていると、だんだんとすべてが溶けていき、ついにはピョロロンと喉の奥に......」と描写されるのだからたまりまへんわ。
私は刺身、焼魚、煮魚など魚は大好きだが、「粗」は知らなかった。焼鮭の皮はうまいし、タラコ、骨せんべいなどは好物だが、血合いや浮袋までは。
築地万年橋界隈の、ややうら寂しい横丁に開店した粗屋はたちまち評判をよび、水産大学微生物学教室による、江戸時代から伊豆半島の洞窟に祀られる、魚の粗がご神体の「粗神様」石板に記された、粗に塩を加えて醸す万能の霊薬「五家鬼養湯」の再現に及んで、粗料理は単なる珍味を越えた古来の知恵であり、学術的にも栄養的にも意味のあることが証明される。
店主は、粗屋の常連となった「中国東方貿易」の人が中国には粗の干物がたくさんあると持ってきた品々を分析、かの国においても古来重要な食材と知る。また、客の話す、真鱈の胃袋と鰓(えら)を干したものを戻して使う大分県山間の粗料理「たらおさ」を試し、石川県能登の「鰤(ぶり)のかげのたたき=生の鰤のかげ(鰓)を鉈(なた)でたたいて細かくし、大根のみじん切りと麹と塩を混ぜて漬け込む。五日ほどしたら、アワビの殻に入れて貝焼きにする」など、日本の郷土料理も粗を使いこなしているのを学ぶ。
秘された味覚を求めて飛び回る小泉先生の面目躍如。学者の手になる小説ゆえ荒唐無稽のはずがない。であればあとは「試食」しかない。私ならまず「海鼠腸酒」に「烏賊の腸煮(わたに)」「鰹の腹皮の塩焼き」で一杯始め、「真鱈の白子酒」に替えて「真鱈の腸(わた)の塩辛」でちびりとやり、最後は「煮凝丼」でお勘定だ。粗屋の開店にはぜひかけつけ、未知の食世界を体験したい。
(おおた・かずひこ 居酒屋研究家)