書評

2019年2月号掲載

トラウマ体験と和解していく過程

――ソナーリ・デラニヤガラ『波』(新潮クレスト・ブックス)

大竹昭子

対象書籍名:『波』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ソナーリ・デラニヤガラ著/佐藤澄子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590156-1

 作者や作品の内容について、まったく予備知識なしに読みだすことは稀である。ところが、今回はそうだった。年末の慌ただしい時期に届いたゲラの束。しかも作品の名前が本誌と同じ『波』だったのでタイトルすらもスルーしていた。
 いざ読みはじめると、ページをめくるごとに心臓がドキドキしてきた。いったいこれはどういう作品なのか。フィクションなのか、ノンフィクションなのか。文学的な香りが高く小説のようでもある。心の準備なしには先に行けない気がして、禁(といっても自分が設けたものだが)を犯して後の訳者あとがきを読んだ。ノンフィクションとわかり、深呼吸して元のページにもどった。
 2004年クリスマスの翌日、スマトラ島沖で巨大地震が起き、それによる津波がスリランカの海辺に大災害をもたらした。観光客で賑わっていた時期で、ニュースでも悲劇が取り沙汰されたのでご記憶の方もいるだろう。本書はその高波に呑み込まれながらも、辛くも生き延びた女性の手記である。彼女はロンドン在住の経済学者で、イギリス人の夫とのあいだに七歳と五歳の息子がいた。クリスマス休暇でスリランカに帰郷し、両親もまじえてバカンスを楽しんでいる最中にそれは起きた。助かったのは彼女だけだった。
 津波当日から七年間の心の動きが綴られていくが、終わりのほうで彼女はこう述べている。「私は常にこの生活とあの生活のあいだでつまずいている。七年が経っていても、いまでもまだ」。
「あの生活」とは、理解ある夫と息子ふたりとロンドンで暮らし、休暇ごとにスリランカに帰省していた一点の曇りもなかった生活のこと。「この生活」とは、それが一瞬にして消えてたったひとり残されたいまの生活のこと。ふつうの神経では対処できないほど深い溝だった。
 被災した当初は「あの生活」の記憶がよみがえってくるのが恐怖だった。そうなれば、もはやそれが存在しないと思い知らされる瞬間が必ずやってくる。それが何よりも恐ろしく、記憶に触れるような物を遠ざけようとする。ロンドンの家にはもどらない、両親の家にも行かない。息子たちの姿はぼやけて不鮮明になる。それでも、浮かび上がるたびにパニックにならずにいられない。「ふたりを締め出さなければならない」と。
 酒を飲み、半分薬漬けになり、破壊された現場、死体、遺体安置所などの画像を検索して浴びつづける。
「私の中には無感覚なところがあり、それはお酒を飲んでいるせいではなく、もっと深いところにある生気のない部分で、そこが私がほんとうに狂うことを拒んでいるのだと感じた。私はそこを、この画像で刺したかった」
 ロンドンにいた頃は同世代の女性が望むすべてを手に入れているような幸福の絶頂にあったが、そこからいとも簡単に放り出された自分を「敗北者」だと感じる気持ちも強かった。それは家族を失った悲しみとは無関係な、浅薄な恥の意識だと頭ではわかっていても、消すことができない......。
 このように、自分をつきはなして「他者」のように観察する態度が、この作品をよくある被災者の体験談と隔てている。一個人を超えて、ひとりの人間を襲った感情と意識状態が、精神の領域に引き上げられ、綴られているところに、驚くべき文学性があるのだ。
 幸福な記憶が恐怖をもたらす時期が過ぎると、彼女は家族のことを「思いだしたい」「知りたい」と願うようになる。ロンドンの家を再訪し、日曜の夜に夫が自分と息子たちの靴を磨いていたボロ布のにおいを嗅ぐシーンは象徴的だ。とるに足らない小さな痕跡ほど「あの生活」が幻ではなく実在していたことの証となり、ディテールを収集して「この生活」のなかに「あの生活」を導き入れ、亀裂を埋める作業に踏みだしていく。
 2011年にはシロナガスクジラを見に海に出られるまでに回復した。はじめは生物好きだった長男と見るべき光景を自分ひとりで目にしていることに動揺するが、クジラの神聖な雰囲気に包まれるにつれて恐れが遠のいていく。
 クジラを見たのは、奇しくも東日本大震災から五日後で、その映像を彼女はこわごわと見たばかりだった。津波に襲われたときはただ波に攪拌され、何が起きたのか分からなかったが、海がこんなふうになったのだと瞠目する。そして同じ海がいま、「罪のない青で私を見ている」ことに心を揺さぶられるのだ。

 (おおたけ・あきこ 作家)

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