対談・鼎談
2019年2月号掲載
特別対談
「真実の領域」まで旅する
角幡唯介 × 国分 拓
アマゾンで100年語り継がれる伝承を書いた『ノモレ』(新潮社)。
北極圏の闇夜を80日間ひとりで冒険した記録『極夜行』(文藝春秋)。
8年前に大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞した二人が、それぞれの手法で探す到達点とは――。
対象書籍名:『ノモレ』
対象著者:国分拓
対象書籍ISBN:978-4-10-351961-4
「イゾラド」に会ってみたい
角幡 『ノモレ』を読んで、国分さんに会いたくなって対談を申し込みました。
国分 お会いするのは五年ぶりでしょうか。僕も『極夜行』を読んで話をしたいなと思っていたんです。読んで衝撃を受けたものですから。衝撃というのは、読んでいて何度も笑ってしまった、筆の力で笑わされてしまった、ということなんです。過酷な状況下での笑いって「逆説」じゃないですか。それって、愛を描くために暴力を題材にするとか、悪を描くために善人しか登場させないことと一緒で、「いつかはきっと」と心に秘めていた描き方だったんです。だから読後は少し落ち込んじゃって。悔しいけど、素晴らしかったです。
角幡 ありがとうございます。
ところで、『ノモレ』を書き終えての手応えはありましたか。
国分 僕はテレビ番組を含め、自分の作品に満足したことはありません。どうしても、「もっと上に登れたんじゃないか」という思いばかりで。結局ここまでだったか......としか思ったことがありません。
角幡 『ノモレ』の元となったNHKスペシャル「最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」は最近まで見ていなかったんです。ちょうど放送された2016年8月は海外にいましたから。帰国して、番組がすごかったという話をあちこちから聞いて、嫉妬したんですよ(笑)。
僕には、未接触部族と会ってみたい気持ちがあるんです。確か、前にお会いしたとき、文明を知らない人々「イゾラド」の話も聞いていました。番組の良い評判を耳にして、「くそ、やられたな。本当にイゾラドに会いに行ったんだ」と思いまして。先日、再放送を拝見しましたが、番組と『ノモレ』はずいぶん違いますね。
番組は、イゾラドと接触した衝撃に重点を置いたドキュメンタリーですよね。『ノモレ』冒頭の、1902年にゴム農園で起きた、奴隷にされた先住民による、実在の事件などが番組にはまったく入っていないのはどうしてですか。
国分 「最後のイゾラド」制作のときは、自分に足枷をかけようと決めたんです。テレビ番組としてヒットさせるという足枷です。それまでずっと好き勝手やらせてもらっていたので、一度ぐらいは視聴率を取りに行くぞ、と。そうなると、『ノモレ』に書いた、小さい集落で百年間語り継がれた伝承や先住民の若い村長の思いなどは、僕からすればテレビ的ではない。自分としては、そう冷徹に判断したつもりです。
小説とノンフィクションの境
角幡 なるほど。『ノモレ』は、『ヤノマミ』とずいぶん違う書き方ですね。『ノモレ』を読み始めたとき、小説かな、と思いました。今回対談をしてみたかったのも、小説とノンフィクションの境目はどこにあるのか、国分さんと話してみたいと思ったのです。僕自身は、自分が成し得た行動に文章表現を近づけて、ドキュメンタリーにしたいと思って書いています。一方で、三人称で書かれた『ノモレ』は、小説とノンフィクションの枠組を相当揺るがしていますね。
国分さんの一人称で書かれた『ヤノマミ』は、アマゾンの先住民ヤノマミ族の暮らしや死生観に対する驚きを、書き手である国分さんを通して我々読者は追体験します。それにヤノマミは、浮気など、人間関係のいざこざがあったり、孤独が好きな男がいたり、僕らと近い存在のように思えます。反対に、三人称で書かれた『ノモレ』のイゾラドは、我々と違う人間のような気がしてしまうのです。いわば我々文明側の「原罪」が内包されたような読み物でした。
国分 『ノモレ』にも書きましたし、番組の映像にもありましたが、イゾラドと文明側の人間が接触する場面に、川が流れています。川向こうにイゾラドがいて、川の手前、こちら側に文明社会がある。その全体像を、「僕」の目を通しての一人称では書き切れなかったのです。実際に書いてみましたが、一人称では百枚が精一杯。筋も痩せて見えた。
『ヤノマミ』で言えば僕、『極夜行』で言えば角幡さん。誰か「接着点」が必要なのですが、あの川の両岸は「僕」では接着しない。川向こうのイゾラドと文明側を接着できるのはあいつしかいない。そう思い当たったのが、文明化した先住民集落の若い村長ロメウです。
角幡 最初から本にするつもりで取材したのですか。
国分 違いますね。テレビ番組のときはテレビのことしか現場では考えません。
2014年に番組の取材をしたときに、現地モンテ・サルバードの長老が、イゾラドのことを「イゾラドではない。彼らは百年前に別れた仲間だ」と言うんです。はるばる東京からイゾラドを撮影しにきたのに、テーマを根底から覆すようなことを言うので、最初は聞かないふりをしました(笑)。「変なことを言うおっちゃんだな」と。でも、何度も真剣に言うから、気になっていました。
一年後にもう一度現地を訪れたとき、先にナショナルジオグラフィックが取材をしていて、僕たちは取材に入れなくなった。何も撮れずに、三日で東京に帰るわけにもいかないし、ヒマだったので、村長や住民に村のことや生活について時間をかけてインタビューしました。そのとき聞いた話が『ノモレ』の元になりました。
角幡 僕は冒険や探検そのものに力を入れていますが、後で書く前提でやっています。自分の体験を事実としてどう書くか、いつも考えています。そうすると、ノンフィクションって一体何なのかな、という疑問にもしばしばぶつかります。
国分さんは、『ノモレ』をノンフィクションとして書いたのですか。
国分 そういうジャンル分けにはこだわらずに、書きたい世界を書きたい話法で書いただけなんです。
ドキュメンタリーの世界でも、「ドキュメンタリーとは何か」的な議論があって、若い頃はおっさんたちに夜遅くまでさんざん聞かされたんですね。それが苦痛で。その時も本心では「何だっていいじゃん。それが訴えかける力を持っていれば」と思っていたんですね。それは今も変わらないし、そもそもジャンル分けとかカテゴライズされるのが嫌いなんです。
「極夜」の無秩序さ
角幡 テレビは、映像という現実と密接にリンクした素材がありますから、いいですよね。一方で、文章は境が曖昧にならざるをえないですよね。
『極夜行』を書いたときに、「極夜」をどう表現すればいいのかを考えました。実際は、はっきり言って暗いだけなんです。そこで僕ひとりが混乱しているだけ。外見的な客観的事実を書くと、「暗いだけでした」で終わってしまいます。
でも、僕は極夜は暗いだけでなく、無秩序なものだと感じていて、それを表現するには自分の主観のなかに反映してくる極夜を書くしかないと覚悟したんです。でも、それは一歩間違えれば「妄想」じゃないかと思ったり、葛藤がありました。それでも、星が語りかけてくるとか、闇夜を照らす月のやり口が十年前の新聞記者時代に夢中になったホステスの手口と同じだとか、そういう書き方をしないと極夜の混乱ぶりを書き表せないのではないかと思いました。
国分 月や星のたとえ話はあの地でしか書けないリアリティを感じたけどなぁ。
角幡 『ノモレ』のあとがきで、「分かりえないことについても挑まねばならなかった」という謎めいたひと言がありますね。あれは何のことですか。
国分 僕が絶対的に分かりえないのは、イゾラドの内面です。イゾラド本人達からの話は聞けていないのですが、文明化した「元イゾラド」に、イゾラドだった頃の話を聞く機会が何度かありました。イゾラドの内面は、それを元に書きました。その箇所を想像による、まったくのフィクションにするという考えもあったのかもしれませんが、僕にはできませんでした。ですがそれは、ノンフィクションに対するある種の「倫理感」からではなく、単に自分にはフィクションを書く力がないと思ったからです。
角幡 2012年に沢木耕太郎さんと対談したとき、ノンフィクションについて「自分がないと思っていることをあるように書くのはダメだ」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
国分 番組の制作を通して、二十年来、沢木さんとおつきあいさせていただいていますが、『ノモレ』は沢木さんのノンフィクションの定義をはずれてしまったのではないかな。「ないと思っていること」ではないですが、「あるかないか、分からないこと」は書きましたから。
角幡 そうなんですね。
国分 あとがきに「物語」という言葉を使ったのですが、川があってそこに分断された何かと、つながっているものと両方ある。それは、「物語」として書かないと伝わらない。通常の形のノンフィクションでは描きたい世界に到達できない。少なくとも僕は、そう思いました。
角幡 小説とは違って、ノンフィクションには、事実が持つ圧倒的な迫力があります。一方で、事実が足枷になることがありますよね。事実だけでは、それを超える真実には到達できないとでも言ったら良いのでしょうか。僕は、真実に到達することは芸術しかできないと思うんです。具体的には文学や絵画が相当するのではないでしょうか。『ノモレ』を読んで、国分さんは真実に到達したいんだろうなと思ったんです。
国分 そんな大それたことを意識はしていないのですが、したいかしたくないかと問われれば、したいんだと思います。でも、『極夜行』は真実の領域に到達していると思いましたよ。ということは、「逆説」だけじゃなく、ここでも先を越されたんだ。クソッ。悔しさを忘れないために、今後は角幡唯介を仮想敵とします(笑)。
「ニュースではない」ものを
角幡 国分さんは朝日新聞のインタビューで、「普遍的なものを書きたい」と応えていましたね。
国分 腐らない、錆びないもの。「ニュースではない」ものに挑戦したいんです。
角幡 分かります。全人類的なテーマですよね。僕がやっている冒険は極めて私的なことです。世の中の人にとっては、どうでもいいことでしょう。ただ、僕がやりたい、私的なことをずっと煮詰めると、僕というひとりの人間の極限状態から、普遍的なものが浮かび上がるのではないか。そこから何かすくい上げて書くことができれば、それは普遍性を帯びるのではないかと、最近考えるようになりました。『ノモレ』は国分さんが三人称を使って、普遍性に挑戦した作品と思っています。
国分 沢木さんの『檀』を初めて読んだとき、それまでの作品と違うのでとても驚きました。でも、あとで気づいたのは、檀一雄・ヨソ子夫妻についての作品でありながら、普遍的な愛の形にまで昇華されているということです。今では大好きな作品です。いつか、沢木さんのように普遍的な地点に至るまでにテーマを昇華させて書いてみたいです。
ところで、角幡さんは日本国内でやりたい冒険はありますか。
角幡 今は関心が完全に北極圏に向かってしまっていますね。現地のエスキモーを見ていると、彼らのように旅をしてみたいと思うんですよ。
昨年十二月に放送されたNHKスペシャル「アウラ」を拝見しましたが、アマゾンの取材はもうされないんですか。
国分 日本の番組を作りたいんです。この十年で、自分の言語で取材したのは福島だけですから。それに、もう番組制作の後に書くのはやめて、書くためだけに取材してみたい。そうしないと、角幡さんと同じ土俵には上がれないですからね。
角幡 いや、同じ土俵に来られても困りますけど(笑)。
国分 番組の取材をもとに書くのは、あと一冊ぐらいで終わりにしようと思うんです。
角幡 それはアマゾンとは別ですか。
国分 アマゾンです。
角幡 やっぱり、アマゾンじゃないですか!(笑) 楽しみにしています。
(かくはた・ゆうすけ ノンフィクション作家/探検家)
(こくぶん・ひろむ NHKディレクター)