書評

2019年3月号掲載

花は紅 柳は緑 岩佐又兵衛

――辻惟雄 山下裕二『血と笑いとエロスの絵師 岩佐又兵衛』(とんぼの本)

ミヤケマイ

対象書籍名:『血と笑いとエロスの絵師 岩佐又兵衛』(とんぼの本)
対象著者:辻惟雄 山下裕二
対象書籍ISBN:978-4-10-602287-6

 岩佐又兵衛の作品は擬音に溢れている。畳を蹴る音、斬られた人間の断末魔の悲鳴、馬の蹄の音。画力のある作家なら描かれている作品から音が聞こえることはままあるが、彼の場合はそこには描かれていない、背景の深い森の中の鳥の声、遠くでうねる海、切羽詰まった場面を盛り上げる物語を語る琵琶、鼓、能管、狂言回しの声まで聞こえてくるように感じる。これは岩佐又兵衛の作品の最大の特徴だと思う。耳の良さに加え、恐らく目も良く、作家としての資質に恵まれた人なのだろう。目の良さと言っても、一般的な観察眼とか空間把握能力だけではない。生き生きと敵に飛びかかる牛若や《花見遊楽図屏風》に、動いている一瞬を捉えて静止画にすることが出来る動体視力の良さを感じる。世間では、「名は体を表す」とか「目は口ほどに物を言う」とか言うが、隠そうとしても作品ほど作家が見えてくるものはない。性格や心情、思考のみならず、体調や運動神経まで見て取れるものだ。
 作家が、記憶を再生したり何かを想像するときに、ムービー(動画)で見ているか、スチル(静止画)で見ているかによって、その人の絵や文章に触れたときに受け取る印象は変わる。例えば『火車』の作者宮部みゆきさんなどは、恐らく作品を書くときに場面が動画で見えているのではないだろうかと想像する。彼女の本を読んでいると、頭の中で映画のように映像が流れるのだが、岩佐又兵衛の絵を見ているときも同様に、動いているように感じるし、描かれたシーンの前後が見えるような錯覚に襲われることがある。
 岩佐又兵衛の絵は、本人が物語の中に入っていかなければ描けないと思うほど、細部の小物や背景まで神経がゆき届いていて、見る者を飽きさせない。《耕作図屏風》など、構図も筆の運びも全て含めて、全体的に品の良い景色に仕上がっているが、近づいて見るとそこに描かれた人々はさほど品が良い感じでも無いのだ。《三十六歌仙画冊》もそうだが、岩佐又兵衛は、どんな性格か手にとるように分かるほど実にリアルにキャラクターを描き分けている。ただその様々な登場人物の目からは、一様に意思や生気があまり感じられない。見開かれたその目は、近視眼的に目前の瑣末なものしか捉えていないようで、どこか虚ろだ。俯瞰で見た綺麗な絵空事では終わらない、人の愚かさや無力さを内包しているのが面白い。
 私が一番好きなシーンの一つに、《浄瑠璃物語絵巻》の牛若が十五歳の春に東国に向かう場面がある。鞍馬から一人心細げに旅発つ牛若は自らの運命に途方に暮れているのだが、そんな物語の虚ろな主旋律とは裏腹に、背景の緑は燃え、山や花は生命を謳歌しているように生き生きと美しく、力強く描かれていて、まるで本人だけが美しく完璧な世界の中にいることを知らないように描かれている。登場人物たちが運命に翻弄され、目先の感情や成り行きに振り回される姿と、彼の描く現代アートやスプラッター映画顔負けの美しい鮮血の赤、背景の燃える緑の美しさとのコントラストが重なる。残酷なほど全てが美しい世界と、不条理な運命は容赦無く登場人物たちを飲み込んでいく。岩佐又兵衛の絵を見ていると孤独や苦悩すら美しく、楽しげに見えてくる。名ストーリーテラーとして彼の根底に流れている、もう一つの真の物語が透けて見えるようだ。
 世の中には物語を必要とする人としない人の二種類がいる。居場所に疑いのない人やそんなことを考えたことのない人たちは、小説や映画、オペラのようなサンクチュアリはいらないらしい。見た目や、世間に貼られたレッテルと現実の自分に隔たりのある複雑な色合いの人ほど、物語を必要とする。岩佐又兵衛は、生い立ち上、様々な色眼鏡で見られ、リアルな自分をなかなか理解してもらえず、また己の人生がなぜこうなのかよくわからないまま生きていくことを余儀なくされて、どこか物語の中でしか生きられない絵師だったのではなかろうか。

 (みやけまい 美術家)

最新の書評

ページの先頭へ