書評
2019年4月号掲載
作り話が本当になるとき
木皿泉『カゲロボ』
対象書籍名:『カゲロボ』
対象著者:木皿泉
対象書籍ISBN:978-4-10-103961-9
このところ私は、木皿泉さんの新しい小説を毎日一話ずつ読んでいる。はだ、あし、めぇ、こえ......という題のついた短編。めぇとは目のことだし、こえに続くのは、ゆび、かお、あせ、かげ、きずと、全部で九編。すべてが体の部位や、体から生まれる言葉でできている。
それぞれの物語のなかには、必ずしもその名で登場するわけではないけれど、「カゲロボ」と呼ばれるものが出てくる。カゲロボは、人や猫そっくりに作られたロボットのようなものらしい。「こえ」のは、ブルッと震えたら放尿したい合図なので、トイレに連れていかなければならない長方形の重たい箱だったけど。カゲロボたちには監視カメラが内蔵されており、職場や学校、あるときはヘルパーさんになって家庭にまで入り込み、虐待やいじめがないか監視をするという。
ほんとうをいうと私は、SF小説が苦手だ。これまでにおもしろいものを読んだことがないのかもしれないけれど、奇想天外すぎて実感がわかず、あちこち連れまわされるだけ連れまわされて、とりとめのないまま終わってしまう。
木皿さんの書くものは、いくら人工知能を持ったロボットが出てきてもそんな目にはあわない。ちょっと突飛に思えるかもしれない設定も、奇想天外というのとは違う。
物語のなかにはいつも、少しだめなところのある主人公がいて、その人のことをとても丁寧に描く。まわりの空気にすっと馴染めず、迷っている間にみなどこかへ行ってしまって、気づけばぽつんとしているような人たち。そして彼らのことを、木皿さんは最後まで見放さない。
出てくる人たちはロボットだろうが何だろうが、血が通っている。もっといえば街も学校も会社も通勤電車も、私たちがよく知っている世界だ。私が幼いころには、もう少し頑丈に見えていたこの世界も、今ではすっかりたよりなくなった。いつ何どき、大変なことが起こって壊れてしまうかもしれない、あやふやでつかみどころのない現実を、子どもも若者も中年も老人も目をつぶって生きている。木皿さんが描くのは近未来の話なんかではなく、この世の片隅で確かに起こっていることなのだ。カゲロボはたよりになる。彼らのおかげで、人々は生きている実感を取り戻せるのだから。
木皿さんの小説がもとになった、テレビドラマの料理を担当したことがある。筆が遅いという木皿さんの噂は本当で、二、三日後に撮影する予定の台本が、ロケ現場のテントに設置されたファックスに、カタカタカタと送られてきた。それでも私たちスタッフは一丸となって、テレビに映らないかもしれないどんな小さな物でも、台本通りに作り上げようと、走りながら道具をつかんで本番に挑むような日々を送った。
台所で次の撮影用の料理を支度していた私は、小窓を照らすオレンジ色が、照明さんが作ったいつもの夕陽なのか、本物の夕陽なのかわからなくなり、窓を開けて確かめたことがある。みんな、本気だった。本気で木皿さんがこしらえる偽物の世界を、再現しようとしていた。
木皿さんが書かれるものは、脚本でも小説でも、木皿さんが見た、聞いた、嗅いだ、食べた、触れた、感じた体の記憶からできている。書けなくて、書きたくなくて、それでも書かないといられなくて、もんどり打った末に生まれた作り話は、本当の話になって立ち上がる。
きのう私は、「かお」を読んだ。中二になっても初潮がこないミカという少女と、彼女そっくりに作られたアンドロイドのミカ弐号、ミカが生まれてすぐに離婚した両親の物語だ。
お昼前で、窓には青空が広がっていた。木皿さんと同じ神戸に暮らす私は、海の近くの小さな駅はあそこだろうかと、いちどだけ訪れたことのある街の、くねくねしたせまい坂道を思い浮かべながら、ベッドに寝転がって読んでいた。
実の娘とアンドロイドの見分けもつけられない両親。母の希望で、お互いの娘を取りかえることになった父がミカのために作った夕飯は、目玉焼きに炒めたソーセージが二本で、「いやというほど」ケチャップがかかっていた。
木皿さんの小説のように、坂の下に広がる海。銀色の電車がごとんごとん走り抜けてゆく。私は読みながら、潮の香りも鼻に感じていたと思う。
途中から私はたまらなくなった。まるですべてがここで起きていることのようだった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら読み終えたとき、分厚い小説を一冊読み終えたような感じがしたのだけれど、時計を見たら、たった二十分しかたっていなかった。
(たかやま・なおみ 料理家/文筆家)