書評
2019年4月号掲載
縄文の世から生きる信仰
――宮城泰年、田中利典、内山節『修験道という生き方』(新潮選書)
対象書籍名:『修験道という生き方』(新潮選書)
対象著者:宮城泰年、田中利典、内山節
対象書籍ISBN:978-4-10-603837-2
日本列島は七割方は山と森に覆われている。あとの二割が海に囲まれた浜辺だ。だからこの列島に住む人々は海と山のあいだの狭小な土地を拓いて暮してきた。原始古代、狩猟に生きる縄文人は、山と森を主な舞台に山人中心の社会をつくっていたのである。つぎの弥生時代、平地を耕す農業文化が出現し、里山や海辺に権力の集中がすすむ。ここで山の民と里の民の大転換がおこる。山と森は怪異の住む地に変貌し、富を手にした平地民の植民地と化す。
本書がとりあげる「修験」の歴史は、この変貌と転換の中からつむぎだされた悲劇の物語だ。その苦難の道を生き抜いてきた「山人」たちを浮き彫りにする、さわやかな歴史だ。
三者鼎談の形をとっているが、内容は濃い。一人は京都聖護院(しょうごいん)修験の総帥・宮城泰年(たいねん)師、もう一人が吉野金峯山寺(きんぷせんじ)修験の長臈(ちょうろう)・田中利典(りてん)師、中に入ってコーディネイトするのが哲学者・内山節氏という陣立て。もはや西欧型の解釈学や進化論的な神学で日本列島の仏教や神仏信仰を理解するのは限界にきている。その視座のもとに自在な議論がはじまる。
原始古代以降、山と森を主舞台にした「修験」と「山伏」の伝統は明治になって「神仏判然令」(明治元年)と「修験道廃止令」(同五年)によって解体に追いこまれた。だが行者たちのきびしい山林修行と根強い信者たちの支援と祈りの力によって今日まで生き長らえることができた。近代化の犠牲にさらされはしたが、むろんこの修験道には役行者(えんのぎょうじゃ)を創始者とする千五百年の歴史があった。中国から伝えられた仏教や道教をとり入れ、自然信仰の豊かな遺産がのこされていた。
その「山岳宗教」の魅力が今日ようやく見直され、山に入って巡り歩く人々が増えはじめている。修験をめぐる記憶や情報が新しい光を帯びて蘇りはじめている。「奥駈け」や「峯入り」に関心を寄せる若者の心を惹きつけるようになった。
修験道とはいったい何だったのか、それに答えるために本書の序章には、内山氏による概言的な説明が語られている。役行者(役小角(えんのおづぬ))についての神話的な生い立ちからはじまり、上から目線の「聖人」伝や「宗祖」論などではない山岳ひじりたちの生態が簡潔に叙述されていく。飛行聖(ひじり)と称された役行者とその前に示現した空飛ぶ蔵王権現、呪的な秘術をたたかわすドラマ。山岳登拝者たちの霊験物語、インド起源の仏・菩薩たち、中国道教に発するカミ・ホトケ、それらが新しい形の神仏習合信仰を生みだしていく。目に見えない地下水のような民の活動が一体となって日本列島型の神仏習合パターンを形成していった。そのための重要な酵母の役割をはたしたのが東北モンスーンによって育まれた湿潤風土だったのではないか。それはおそらく山伏たちの山中修行にも甚大な影響を与えたにちがいない。論より証拠、比叡山にはかねて論・湿・寒・貧という修行論題が掲げられていたことが思い出される。宮城泰年さん、田中利典さんの体験語りのなかにもそのような問題意識がにじみ出てくる。まさに修験道的風土のなかに熟成された香りといっていいだろう。
平安期の「日本霊異記」や「源氏物語」、また中世期の「謡曲」や「説話集」などには、病気直しや悪霊払いの場によく山伏の姿があらわれる。神仏の加護を祈る修験道の霊威が生き生きと語られているのが印象的である。これについては後世の大和ごころの研究者・本居宣長がこんなことをいっている。――病いを直すには、まず神仏のしるしを仰ぎ、その加護を祈ることがもっとも重要なことで、それこそが「もののあわれ」をあらわす。ただちに薬師や薬餌に頼るのは「さかしらごと」である、と。まさに修験道の芯をいいあてている。
以前、出羽三山を登ったときのことだ。はじめ湯殿山にとりついたとき、行けども行けども森の中だった。山路はつけられていたけれども、まるで地を這うような気分に追いこまれていった。まさに迷路をさまよい歩いているようだった。その迷路をたどっているうちに、自分の意識がこころの内部に向けられていることに気がついた。大袈裟にいえば「自己」とは何かの問いの前に立たされていると思ったのだ。
ところが日を改めて、つぎに月山に登りはじめたときは登拝の印象がまるで違っていた。思ってもいなかった景観が展開しはじめたからである。山頂近くにたどりついたとき、眼前がにわかに開かれ、眼下に三六〇度に広がる明澄な大空間があらわれた。そこにはまさに「世界」そのものが宇宙的な輝きを放って展開していた。修験道の醍醐味はそんなところにもひそんでいるのではないかと想像されたのである。
(やまおり・てつお 宗教学者)