書評

2019年5月号掲載

赤松利市『ボダ子』刊行記念特集

ボダ親とボダ男とボダ女とボダ子

岩井志麻子

対象書籍名:『ボダ子』
対象著者:赤松利市
対象書籍ISBN:978-4-10-103581-9

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 読んでいる間中ずうっと、頭が痛い胸が痛い腕が痛い、何より肛門が痛かった。
 この『ボダ子』を知る前から、いろんな業界関係者に赤松利市さんの噂は聞いていた。全身小説家。これは小説家の井上光晴先生の晩年をドキュメンタリーとして撮った原一男監督の映画の題名だが、御本家に並ぶ赤松先生の全身小説家ぶりは、何を聞いてもひたすら圧倒され、あきれ果て畏怖し、「私には無理」と思わせてくれるものばかりだった。
 実はかなり昔、御本人にお会いしたことがある。そのときも全身小説家の片鱗は垣間見えていたものの、正直そこまでの完成形ではなかったように記憶している。
 あの頃の赤松先生は、現世のいろんなものに恵まれ余裕がおありで、何が何でも小説家でいたいお人ではなかったからだ。と、決めつけてしまうのは、私が全身愛読者だからだ。
 それでも、『ボダ子』を読んでしまってからでは、なんだか『ボダ子』以前の作品を読んだときと私の読者っぷりも違ってきた。もちろんこれ以外の作品も傑作揃いなのだが、以前は私の中では作品より御本人の凄さが先行してしまい、私なんかが小説家を名乗っていいのか、とまで考えこんでいたのだ。
 私は居心地よい部屋でのんびりくつろぎ、たまには贅沢な旅行も高い食事も楽しみたいし、自慢の子だといえる息子と平穏に暮らし、というのがまずは大事なことであって、それらがあってこその小説書きだった。
 赤松さんとほぼ同年代で、どこか似た匂いはあるものの生き様や暮らしぶりはまったく違う親しい男性がいるが、彼に赤松さんの話をし、どうしようもなく劣等感と引け目みたいなものを抱いてしまうといったら、
「志麻子さんは小説家を安定した職業にしたい人で、赤松さんは金になろうがなるまいが、とにかく小説を書きたい人なんだから、最初からジャンルが違うだろ」
 と答えられ、ひどく安心した。私はひりひりとした痛みや焦燥を感じず持たず、ただ赤松世界に浸ればいいのだと。
 しかし初めて、肛門が痛いとはいわされた。これは愛読者としては、幸せな悦びの痛みを得られたことになるのか。
 そもそも題名にもなっている通称ボダ子が主役かと思って読み始めたら、どうしても作者と同一視させられる語り手の父親、浩平が主役だった。
 彼はものすごいダメ男として描かれているが、クズ男ではない。ダメとクズは似て非なるものだ。クズ男やクズ女は彼の職場や娘の入院した病院、ボランティアの現場などに遍在し、よく読めば光り輝くダメ男は浩平ただ一人である。
 娘は、ピュアすぎて透き通るような唯一のダメ女だ。
 そしてクズの一人である私は、いろんな濃い登場人物の中から誰より泰子に釘付けになってしまったのだった。
 浩平は薄幸な女がタイプと繰り返し、だから惚れたとなっているが、実は単なる極貧の女だった、という泰子。
 なんというか、全身肛門みたいな女なのだ。常に黴菌にまみれ、排泄物を出す器官なのに、エロな行為にも使われるし、人前で出してはいけない部位。
 浩平も情欲、愛欲は当然のことながら、何やら生存への渇望や成功への熱意、娘を守ろうとすることも含めての真っ当な活力、あらゆる前向きといってもいいものを泰子の肛門に求めつつ、暴力衝動に破壊願望に日々の苦悩や不安や葛藤や恐怖、後ろ向きな感情の捌け口としても泰子の肛門を使う。
 登場人物の誰よりも嫌々ながら感情移入してしまう泰子のおかげで、いや、浩平のせいで、読んでる間ずっと肛門から血が出ていた気がする。
 ちなみに前述の、赤松先生とどこか似て全然違う男性もまた、口癖のように「貧乏臭い可哀想な女が好き」という。いじめる。いじめたい。これは本来、愛が必要なのだからと。
 考えてみれば、ダメ男好きの女というのも一定数いるわけで、すべての人が美しい希望や正しい規範で生きたくもないのだ。人ってみんなボーダーだな、と改めて思うわけだ。
 とはいえやっぱり、私はネットカフェに寝泊まりするのも、肛門を使われるのも嫌で、安全なこちら側にずっといながら赤松先生のあちら側の危ない世界をのぞかせていただく。
 でも、赤松先生を徹底的にあちらに追いやらないボダ子の面影を一緒に追い、待たせてもいただきたい。

 (いわい・しまこ 作家)

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