書評
2019年5月号掲載
自分が自分の道化に……
――日和聡子『チャイムが鳴った』
対象書籍名:『チャイムが鳴った』
対象著者:日和聡子
対象書籍ISBN:978-4-10-303773-6
一年に短篇を一つずつ書いていって、四年で四つまとまった。この前の『校舎の静脈』は短篇三つと比較的長めの標題作を収めていたが、このたびも同じで、比較的長めの一つと短篇が三つ。
作者日和聡子は、いたって生産性の乏しい作家ということになるが、もとより文学は生産量と何の関係もない。それに彼女にとって寡作は当然のなりゆきである。そもそも書きようのないものを書いているのだし、言葉にならないものを言葉にしようとしている。書きようのないものを書くには腕力がいるし、言葉にならないものを言葉にするには知恵がいる。日和聡子は一作ごとに腕力をつけ、知恵を深めてきた。
「世羅正子は......」「アンカーの麦原美芽とその父親に......」「興味と関心を持った至知長太郎が、虹見京太郎を見上げ......」「虹見心市は、はじめ二人の様子を見ていたが......」「水尾善乃は目をつむって顔を伏せる」......。
「虹のかかる行町」に出てくる人々は、みんな戸籍謄本どおりの姓名で語られ、その姓名で退場する。これが行町の定めでもあるかのようだ。姓だけとか、名だけとか、そんな不埒(ふらち)なことは許されない。だいいち、それでは人と人とのつながりが成り立たない。あるかないかのかかわりは、ようやく戸籍謄本が成り立たせているものだ。
妹であっても兄の顔がわからない。わかるためには、テレビを見ている兄の顔の前へまわり込み、のぞき込まなくてはならない。
「ほんものの兄であるかどうかをよく確かめてみなくてはならない。そう思ったのだったが、目を凝らしてよく見ればみるほど、それがほんものの兄であるかどうか、わからなくなった」
人と人との関係が、うすいセロファンのように希薄なのだ。まなざしのまじわることはない。人と人とは、ちらばった島のように孤立している。してないフリをしているだけ。
「そんなはずはない。
何も起こらない。
何も起こるはずはない。
いつも通りだ。
何事もない」
だから今日が明日になるのだし、明日があさってになるはずなのだ。そんなふうにして社会が維持されている。そんな原則を信じない人がいたら、手のつけられないおバカさん。
二つ目の「かえる」では、家の近くの水たまりに生みつけられたかえるの卵を、子どもがバケツに入れて持ち帰った。戻してこいと母親に言われて戻しに行って、いつまでも帰ってこない。母親が心配して探しに行って、やはりまた戻ってこない。姉に心配がつのってくる。なじみのたこ焼のたこたこ堂の車がコマーシャルソングとともに近づいてくる――おいで~ おいで~ たこたこ堂~の......。姉は不安でたまらない。
「そもそも、弟は一体どこからきたのだろう。自分だって、どこからきたのかわからない。これからどこへ行くのかも」
「ともだち」の女の子は友だちのすまちゃんを探しに出たが、早く家に帰りたい。しかし、出たからには、「もはや引き返すことはできず、まだ帰ることはできない」。
このような齢ごろの女の子を書くのが、日和聡子は抜群にうまいのだ。ふだんはひとときもじっとしていない。いずれ友だちと電話で、いつはてるとも知れないおしゃべりをして、護身符のようにケータイを持ち歩き、通話料のためにコンビニのレジに立つだろう。
日和聡子は誰もが心の奥底にひそかに抱いている不安と恐れを書いていく。心の底にそれと知らず抱いている不安、いつもどこか心細いような、どこかに行ってしまうような不確かな心持ち。高みから身を乗り出すと、目の下の列車に引きこまれそうになるものだが、しかし、列車がくれば、身を乗り出さずにいられない。身内の誰かが、ほんのしばらく姿が見えないだけで、あらぬ妄想に駆られ、片ときもじっとしていられない。わけもなく恐がる自分の分身に当の自分が翻弄される。小さな不安に追いつめられて自分が自分の道化になっていく。
日和聡子はそんな現代の微妙なたたずまいを、片隅からじっと見守るようにして書いている。
(いけうち・おさむ ドイツ文学者)